行け、わが思いよ、カナカナの翅に乗って

今日今晩は。
「国際環境NGO(嘘)RealCrazyClimate」の会員某で~~~す。

え~、前回の投稿ですが。
今度は、トラックバックが1回しか送信されなかったようだな。
増田増田、じゃなかった、ますます、わけ判らんぞ。
2回送って欲しかったのに。
肝心のときに、思い通りにならんな。
もう、どうでもいいや。

さて、8月6日の投稿で、2011年6月19日の朝鮮日刊新聞社説を紹介したけど、重要な事を書きそびれたので、もう一度採り上げるわ。


電力買い取り―今国会で成立させよう
太陽光に風力、水力、地熱、バイオマス(生物資源)……。
これらの自然エネルギーを使って発電された電気を、国が定める価格で買い取るよう電力会社に義務づける。
自然エネルギー普及の切り札とされる「全量固定価格買い取り制度」だ。
これを導入する法案が、国会でたなざらしにされている。東日本大震災の日の朝に閣議決定され、すでに100日が過ぎたのに審議に入れない。
理由のひとつは、買い取る費用が電気料金に上乗せされるため、経済界を中心に慎重論が根強いことだ。
経済産業省の試算では、制度開始から10年後、標準的な家庭で月150円から200円ほど負担が増えそうだ。電力を大量に使う企業にとっては、大きな負担になりかねない。
それでも、私たちは今国会で成立させるべきだと考える。
原発事故を目の当たりにしたいま、地球温暖化を防ぎながら、原子力への依存度を下げていくには、自然エネルギーの普及を急がねばならない。
それに地域経済の自立や災害に強い国づくりにも役立つ。小型の発電設備を家庭や集落に置けば、地域で電力を賄えるし、発電所や送電網の事故による停電の被害も小さくできる。
そのうえ「純国産」だ。輸入に頼る石油やガスへの依存を減らせれば、安全保障上も、長い目でみれば経済的にも利点は大きいはずだ。
各党も自然エネルギーの普及を公約している。2009年の衆院選では自民党も「太陽光発電の買取制度など」による自然エネルギー拡大を掲げていた。
なのに谷垣禎一総裁は「法案が実効的か検討の余地がある」と述べ、審議入りに慎重だ。効果に疑問を抱くなら、高めるための提案をすべきだ。
この制度が根づけば、電気は電力会社が巨大な発電所でつくるものという「常識」が覆る。国民が電気の利用者から、供給者になっていく。
裏返せば、電力会社が地域の電力供給を独占してきた既存の体制は揺らぐだろう。それだけに強い抵抗は避けられない。電力業界は民主党にも自民党にも強い影響力を持つ。その意をくんで、法案に反対する政治家が多く出るに違いない。
一方で、超党派の国会議員らが法成立を求め、議員200人余りが署名している。
これは、新しい政治の対立軸になる。採決の際に、党議拘束をかけず、各議員の見識を問うてみるに値する。


(2011年6月19日の朝鮮日刊新聞社説)

あのね。
太陽光発電パネルや風車を造るための資材は輸入に頼ってるんでね。
「純国産」なんて真っ赤な嘘だろ。

嘘と言えばだな、4月26日の投稿で紹介したけど、朝鮮日刊新聞は「風力発電で原発40基分の発電可能」などと報道してたな。
ところがだ。


「風力で原発40基分可能」朝日新聞の報道に東大名誉教授苦笑
2011.05.11 16:00
4月22日の朝日新聞に、夢のような見出しが躍った。
〈風力なら原発40基分の発電可能 環境省試算〉
記事によれば、日本全体で風力発電を導入すると、約2400万~1億4000万kWの出力になり、稼働率を24%としても、原発7~40基分に相当するというのである。検証してみよう。
日本で発電可能な風が吹く時間は年間約2000時間とされるから、「稼働率24%」は妥当といえる。
日本で導入されている大規模風力発電で使われる2000kWクラスの風車で考えるならば、原発1基(100万kW)を代替するには、およそ1770基が必要になる(原発の稼働率を実績から85%と仮定し、風力の稼働率を24%と仮定)。
互いに干渉しないためには風車を最低でも100mずつ離す必要があるから、直線に並べれば177kmになる。ざっと東京~いわき間の距離だ。
40基分となると、この40倍だから7000km以上。北海道の稚内から鹿児島の指宿を結ぶJR線の距離が約3000kmなので、風車が列島を南北に1往復する計算になる。これが現実的でないことは、もはや言葉を要しない。
“大朝日”が、なぜこんな大間違いを書いたのか。記事は環境省試算を根拠にしているが、その同省が所掌する「地球温暖化対策に係る中長期ロードマップ検討会」の委員である安井至・東京大学名誉教授はこう苦笑する。
「委員で風力だけが代替エネルギーとして有力だという人は一人もいません。朝日の記事にある試算とは、可能な場所をすべて風力発電で利用し尽くした場合の『ポテンシャル』の数字であり、現実的なものではありません。
ポテンシャルについては風力だけでなく地熱、水力、太陽光なども発表していますが、朝日はその一部の数字から独自の計算をして『原発40基分』などと書いたのでしょう。昔から反原発派の人々は『風力推進派』が多く、そうした思想が背景にあるのかもしれません」
風力発電は、ヨーロッパなどでは大規模な導入実績や計画があるが、日本には当てはまらないという。
安井名誉教授が続ける。
「大陸の西端にあるヨーロッパでは、一定して西風(偏西風)が吹きますが、東端の日本は風向も風力も安定しません。また、ヨーロッパの海は遠浅で洋上風車が建設しやすいが、日本はその点で不利なうえ、台風や落雷が多く、実際に被害も起きています。
日本は風況の良い場所が少ないうえ、僻地になってしまう。北海道の稚内は有力地ですが、そこで発電して、どうやって東京まで電気を持ってくるかは難題なのです」
日本の「風況」が安定しないことはよく知られており、最も適した北海道でも、2009年の例で、利用率データのある38の風力発電所のうち、計画された発電量を5%以上上回ったのは1か所。逆に5%以上下回るものが21か所あり、平均で26.3%の稼働率だった(「北海道における風力発電の現状と課題」北海道産業保安監督部=2010年)。
これが「国内最適地」に開発された風力発電所の実績であり、この面でも朝日の机上の空論は明らかだ。


(週刊ポスト2011年5月20日号)

「大間違いを書いた」のではなく、実は「大嘘を書いた」んだよ。
本当に「風力発電で原発40基分の発電可能」ならば、電力が不足する事などあり得ないわけ。
ところが、朝鮮日刊新聞は、国民は生活を見直せ、と言い立ててきた。


古い笑話をひとつ。雷を天のたたりだと怖がる祖母に、孫が「心配しなくてもいいよ。雷は電気だから」。すると祖母いわく。「うそを言うでない。村に電気が来るより昔から雷は鳴っていた」▼雷が電気だと証明したのは米国のフランクリンだった。名高い「嵐の中の凧(たこ)揚げ」は、一説では1752年の今日だったとされる。19世紀になるとアーク灯、さらにエジソンの白熱灯が発明された。電気照明の夜明けである▼日本では1882(明治15)年、東京・銀座の街頭にアーク灯が1本ともった。「目もくらむ明るさ」に見物人でごったがえした。当時の雑誌は、擬人化された電灯が意気軒高に「全国中を隈(くま)なく輝かせる」と意気込む戯画を載せている。仰せの通りになったのは私たちの知るところだ▼時は流れて、夏至でもある今日、夜に電気を消してろうそくの明かりで過ごす試みが各地である。数年来、エコ意識の高まる中で輪を広げてきたが、今年は特別の意味があろう。電気はもはや無尽蔵ではない▼思えばほんの少し前だ。テレビのチャンネルをカチャカチャ回していた頃、家族は一つのこたつに足を入れていた。この30年で一世帯あたりの電力消費は5割以上も跳ね上がった。原発は23基から54基に増えている▼増設は国策だが、電気を使うから増えたのか、増えたから使うのか。卵とニワトリの関係のように分かりづらい。山で迷ったときは立ち止まり、引き返すのが原則だ。戻ることで見いだす新たな道もある。


(2011年6月22日の「天声人語」)


英語で「ファイブ・オクロック・シャドー」と言う。訳すと「午後5時の影」、と言っても夕日に伸びる影ではない。会社の引け時になると、朝に剃(そ)ったヒゲが伸びて男の顔にうっすら影を作る。その、かすかな翳(かげ)りのことだ▼粋(いき)で渋いか、ただの無精(ぶしょう)に見られるかは、その人次第となろう。そんなふうに象徴的に「9時から5時まで」と言われる働き方が、この夏、様変わりしつつある。始業と終業を早めるサマータイムを取り入れる企業が、じわり広まっている▼「短夜(みじかよ)」「明易(あけやす)し」といった季語さながらに、夏の朝は5時には明るい。天然の照明と朝の冷気を無駄にするのは、思えばもったいない。夏時間を当て込んでの「アフター4商戦」も熱を帯びてきた▼夕刻の余暇利用も利点とされる。習い事、スポーツジム、家族とのひととき――。「朝早いのはつらいけど、この1時間は貴重です」という声を記事が伝えていた。小紙の調査によれば、主要企業の導入機運はかつてなく高いという▼国の制度としての夏時間は賛否を二分してきた。反対論の一つに残業があった。日が高くては帰れない。長く働かされるだけだ、と。だがこの夏は電力不足で、いわば早上がりのための措置だ。横並びで居残る企業文化を変える契機になるだろうか▼楽観主義者はドーナツを見るが、悲観主義者はドーナツの穴を見るのだそうだ。不足を嘆かず、ある電気を賢く使いながら暮らしや価値観を変えていきたい。思えば得難いチャンスである。


(2011年7月7日の「天声人語」)


節電と照明―適光適所を考えよう
窓外の夏の風景が心なしかまぶしい。室内を見やれば、蛍光灯の列が間引かれている。
東京電力と東北電力の管内で電力使用制限令が始まった。冷房控えめの暑さはともかく、明かりを落とした生活に多くの人は、じき慣れるのではないか。
そもそも日本の照明は明るすぎる――。海外から来た人がよく口にすることだ。
東京の夜景をながめれば、町全体が白く輝いている。ビルの蛍光灯や水銀灯の集合が、専門的にいえば「色温度が高い」光景を演出する。欧米の街なみは火や夕日に近い、オレンジ色の暖かな明かりである。
オフィスや公共空間のたっぷりすぎる照度も、特徴だ。
日本工業規格(JIS)の照度基準は、安全や作業効率上必要だとして、何度か引き上げられてきた。現行の事務室の推奨照度は750ルクスと、諸外国より高め。しかもオフィスではギラギラと、隅から隅まで等しく照らすのが主流だ。
日本で環状の蛍光灯が登場したのは1953年。そのころから、明るさ=(イコール)豊かさだと信じ、ひたすら光の足し算を重ねてきた。それを支えたのが、電力の安定供給だったのだろう。
3・11後、この国の明るさはどこへゆくのか。
「光の過食症」を正し、光の量から質へと見直す機会だというのは、照明デザイナーの面出薫(めんで・かおる)さんだ。「○○%削減」と一律に、乱暴に暗くせず、メリハリを利かせ、気持ちのよい照明環境を工夫する。
地下の通路で天井灯を減らしても、案内表示の照明がちゃんとついていたり、壁面が明るかったりすれば、暗さはさほど感じない。スーパーでも商品棚の明かりを残しておけば、買い物の楽しさは損なわれないはずという。オフィスなら、全体照明と手元を照らすスタンドとを組みあわせる方法もある。
他方、防犯のための明かりや弱視の人、高齢の人への配慮は維持すべきだろう。要は、賢く光の引き算をすることだ。
省エネ光源や照明の制御技術は次々生まれている。パソコン普及で仕事の環境も変わった。
JISの明るさ基準を見直してもいいのではないか。東京都の石原慎太郎知事が国に求めたほか、日本建築学会も、節電の下ではJISから一段階下げた照度でかまわない、とする提言を5月に出している。
しばらく続く節電時代。苦難と思うだけなら芸がない。「適光適所」や「適温適所」に知恵を巡らせ、限りがある暮らしを考えるもよし、である。


(2011年7月3日の朝鮮日刊新聞社説)

「風力発電で原発40基分の発電可能」なのに、ナゼこんなこと言うんだ?
「風力発電で原発40基分の発電不可能」だから、と言うよりも、週刊ポストの記事にも見えるとおり、実は、風力ではまともに発電など出来ないと知っているからこそ、生活を見直せ、と命令するわけだ。

もう、これだけで「再生可能エネルギー」の卑劣さが判るだろ。
本当に「再生可能エネルギー」を推し進めることが国民の利益になるのならば、国民に事実をありのまま知らさねばならない。
新聞社なら尚更のこと。
ところが、あべこべに「純国産」だの「原発40基分の発電可能」だのと嘘を書き連ねて、煽り立てているわけだ。
「再生可能エネルギー」を推し進めるためには国民を騙さねばならない、ということだろ。
それは、国民のためではなく、国民から毟り盗るための「再生可能エネルギー」に他ならない、ということだろ。
違うか?

で、結局のところ「再生可能エネルギー」を正当化する唯一の拠りどころは「地球温暖化を防ぎながら」というやつだが。
サイドバーにアップロードしている”「地球温暖化懐疑論批判」の不都合な真実”を読んでもらえば判るとおり、人為的温暖化はこれまた真っ赤な嘘。
ということは、人為的温暖化論そのものが国民から毟り盗るためにでっち上げられた嘘、ということだな。

それにしても、「思えば得難いチャンスである」とは許し難い暴言だぜ。
ダイオキ慎太郎の「天罰」発言よりも100シーベルト醜い。
被災者の前で言ってみろ!
しかし、再生可能エネルギー買い取りを言い立てている輩は、大なり小なり、同じような発言をして憚らない。
そのくせ、ダイオキ慎太郎を批判する。
ダイオキシン以上の有害物質だな。

始めの社説に戻って。
「それに地域経済の自立や災害に強い国づくりにも役立つ。小型の発電設備を家庭や集落に置けば、地域で電力を賄えるし、発電所や送電網の事故による停電の被害も小さくできる」という件だが。
「自立」って言うんなら、先ず、テメエら東京の住人から率先してやれ!
テメエらが「自立」してないから、福島県民がこんな目に遭ったんだろ!
ところが、「再生可能エネルギー」を吹聴している連中は全く逆のことを言ってるんだな、これが。


復興構想会議―政治は希望を砕くな
菅直人首相が発足させた復興構想会議が第1次提言を6月末にまとめる。政治状況の流動化に右往左往することなく、今後も真摯(しんし)な議論を続けて、被災地の希望を描いてほしい。
これまで会議では様々な意見が出されてきた。
地震や津波の被害を減らすため高台に居住地を配置、あるいは海沿いに道路など交通インフラを置き、堤防代わりにしたらどうかという提案があった。
工場の建て替えなどが円滑に出来るよう、地域の金融機関を支援する枠組みを求める意見や、特区を設けて税を減免し、規制緩和を強力に進めるべきだとの主張もある。
「地震国日本にふさわしい発電様式を、福島において研究、発展させるべきである」という玄侑宗久(げんゆう・そうきゅう)さんや、東北を太陽光発電のベルト地帯とする内館牧子(うちだて・まきこ)さんの構想も魅力的だ。
アイデアが目白押しだ。ただ、提案相互の関係や具体的な進め方はまだはっきりしない。
構想会議に求められる役割とはなんだろうか。何よりも復興再生の方向性、基本となる道筋を定めることではなかろうか。
明確なメッセージを国民、とりわけ被災地の人々に示し、そうすることで力を集中させる。計画の優先順位を決め、取捨選択をしなくてはならない。
優先度を決めるには、地域で必要とされる緊急性、事業がより多くの人や企業の救済、便益につながる汎用(はんよう)性、時間はかかるが継続的に進めることで減災や活性化につながる将来性、それらを総合的に勘案して判断することになるだろう。
といって、財政的な裏打ちがない限り、意欲的な提案も絵に描いた餅にすぎなくなる。
ここからは政治の責任だ。菅首相は、提言を受けて第2次補正予算案を編成する考えだった。首相の退陣表明をめぐって混乱が続いているが、大震災からの復興が政治の最優先課題であることは論をまたない。
復興事業の規模は大きい。一方で、国の財政は切迫しており、償還財源を決めないままの国債発行では市場に不信任を突きつけられかねない。将来世代への負担つけ回しにもなる。
構想会議が公表した「中間整理」でも、復興税導入への慎重論に触れる一方、多くの委員が増税による財源確保の必要性を指摘している。
復興事業を早く軌道に乗せるとともに、国民には増税への理解を求める。誰が政権を担うにせよ、その覚悟と実行力がなければ被災者の希望は砕け散ってしまう。


(2011年6月6日の朝鮮日刊新聞社説)

自分達が「自立」してないくせに「東北を太陽光発電のベルト地帯とする」だと!
糞ババアが!

始めの社説に出てきた「地域経済の自立」の「地域」とは、東京以外の「地方」という意味だ。
「小型の発電設備を家庭や集落に置けば、地域で電力を賄える」というのは、地方は不安定な自然エネルギーだけで我慢しろということ。
だからこそ、朝鮮日刊が「ある電気を賢く使いながら暮らしや価値観を変えていきたい」だの、「限りがある暮らしを考えるもよし」だのと言い放ったわけだ。
地方は貧しさに耐えろ、それが「自立」だと。
救いようの無い「自己中」だな。
なぜ、地方の人間が耐えねばならんのだ!
地方の人だって東京と同じような暮らしがしたい。
だから、原発にすがったんだろ!
それが判らんのか!
在京の輩が平然と「地震国日本にふさわしい発電様式を、福島において研究、発展させるべきである」だの、「東北を太陽光発電のベルト地帯とする」だのと言い放って憚らない、それこそが、原発誘致を招いたんだろ!


『俺俺』で大江健三郎賞受賞の作家・星野智幸さん 震災後も不毛な対立に終始する政治
2011.5.17 07:55
他人への想像力を欠いた「俺」が無限に増殖していく。そんな現代日本を描き出した長編『俺俺』(新潮社、1680円)で第5回大江健三郎賞に決まった星野智幸さん(45)。政治や社会状況を積極的に扱う気鋭の作家は「不毛な二項対立が繰り返されている原発の議論を見る限り、政治の状況は以前と何も変わっていない」と大震災後の社会を冷静に見つめている。
東京近郊の家電量販店で働く「俺」は、マクドナルドの店内で隣に座った男の携帯電話を手に入れ、出来心で振り込め詐欺を実行する。ところが、なぜか「俺」はだました母親の本当の息子になり、本当の実家に行くと知らない男が「俺」を名乗って生活していた。やがて周囲のみんなが「俺」になり、果ては「俺」同士の殺し合いが始まる…。そんな奇抜で不条理な物語『俺俺』は、誰もが代替可能な存在になり、自意識の崩壊に直面する現代人の苦悩を浮き彫りにする悲喜劇であると同時に、ともすれば自己中心的な言説が幅をきかせる日本社会への痛烈な批評にも読める。
みんなが自己中心的になっているので、自己中心的だという意識すら消えてしまう状況。選挙や世論調査など社会のさまざまな局面を見て感じていたことです」と、星野さんは執筆時の心境を振り返る。
刊行は昨年6月。東日本大震災発生直後、誰もが『無私』の精神を体現しているように見え、「『俺俺』は過去のもの」と感じたが、日がたつにつれ「やはり現在の作品」との思いが強くなったという。
「自己中心的といえば、(首都圏での)買い占めも原発をめぐる議論もそう。本当に重要な問題は置き去りにされて、反原発か原発か…と対立ばかりにエネルギーが注がれている。福島とか新潟とか、原発を誘致することで生きていこうとした人たちの複雑で、声にならない声を聞く気持ちはないのかな、と感じた
文芸賞を受けたデビュー作『最後の吐息』から14年がたつ。「政治と文学のかかわりを徹底して考えてきた大江(健三郎)さんをモデルケースとして吸収しながら成長してきた」だけに、大江さん一人が選考にあたる同賞受賞の喜びはひとしおだ。
「誰もが無意識の領域に押し込めて、見ないようにしている部分を可視化することで現実と正面から向き合うのが僕の小説。震災後もそのスタンスは変えないつもり。ただ読んだ人が何か力を得られるようなものは、もっと見いだしていきたい」(海老沢類)


(MSN産経ニュースより)

かなり以前だけど、NHKの番組だったかな、福井県の老人が、原発立地で道路が整備され、そのお蔭で息子夫婦と孫が盆や正月に帰って来るようになった、と喜んでいたっけ。
それを聞いた時は言葉も無かったね。
「原発を誘致することで生きていこうとした人たちの複雑で、声にならない声を聞く気持ち」が無かった己の「自己中」を思い知らされたね。
しかし、再生可能エネルギーを喚き立てている輩は「自己中」の塊。
実際、再生可能エネルギーを喚き立てている輩は、もう地方に道路や空港を造るな、と喚き立ててきた連中ばかり。
朝鮮日刊新聞はその最たるもの。
そのくせ、成田は不便だから羽田の国際化は歓迎などとほざきやがる。
もう一度言うがな、しかし、それこそが原発誘致を招いたんだよ!

例の「村野瀬玲奈の秘書課広報室」が、小出裕章の言葉を採り上げて、「次にだまされないことが、だまされた者の絶対のつとめです」などとのたまってるけど。
何回も繰り返すけどね、8月6日の投稿で紹介したとおり、小出裕章は、火力発電で置き換えれば原発は即全廃できる、と言ってんだよ。
それなのに、再生可能エネルギー高値買い取りが絶対必要、などと言い立てることこそ、「何度でもだまされる」ことだろ。
って言うか、今度は私達が騙す番、ということかな?

でっち上げにすぎない人為的温暖化を喚き立てたことが、福島原発温存に繋がったんだ。
4月28日の投稿で紹介したとおり、東電の社外監査役だったゴミ山宏がその生き証人。
(次回の投稿で採り上げる予定だけど、実は、朝鮮日刊新聞こそがその最大の証。)
それなのに、またもや人為的温暖化を喚き立て、再生可能エネルギーでなきゃダメと言い立て、原発の即時全廃を阻害し、返す刀=高値買い取りで国民から毟り盗る。
「何度でもだまされる」の典型だな。

2つ目の朝鮮日刊新聞社説は被災者をそっちのけにして「東北を太陽光発電のベルト地帯とする内館牧子さんの構想も魅力的だ」などと決めつけた挙句に、あべこべに「被災者の希望」を騙って増税を正当化したけど、前回の投稿でも指摘したとおり、これこそが再生可能エネルギー高値買い取りの論理なんだ。
被災者をも利用して利益を貪る。
それが「再生可能エネルギー高値買い取り」の真実。

地方を原発にすがらざるを得ない状況に追いやったのは、再生可能エネルギーを喚き立てる東京の人間の「自己中」なんだ。
「再生可能エネルギー高値買い取り」は究極の「自己中」。
こんなものを正当化する連中が幅を利かせている限り「被災者の希望は砕け散ってしまう」。

先週の土曜日、朝4時半頃に目が覚めたけど、我がボロ家の庭でカナカナが鳴いてた。
物悲しく鳴くんだよな。
カナカナは薄暗い茂みを好むから、庭で鳴くなんてありえないんだ。
見捨てられた被災者の悲しみを訴えに来たのかな?

広告

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。