再生可能エネルギー交響曲第9番「ザ・グレイトファシスト」

シューベルト「交響曲第8(9)番(ザ・グレイト)」

今日今晩は。
「国際環境NGO(嘘)RealCrazyClimate」の会員某で~~~す。
今日はこの社説から見てもらおうかね。


脱原発集会―民主主義が動き出す
「ええじゃないの 原発なくてもええじゃないの」と踊り歩く人がいる。「原発なくせ。即時廃止しろ」とシュプレヒコールをする人もいる。「げんぱつじこまえの ふくしまに かえりたい」というプラカードを掲げる子どももいる。
おととい、東京・明治公園で開かれた「さようなら原発」集会は、主催者発表で6万人を集めた。圧巻だったのは、その規模よりも参加者の多様性だ。
労働組合や平和団体だけでなく、高齢者、学生、女性、子どもたちが練り歩く。のぼりやゼッケンの主張も、さまざまだ。とにかく言いたい、思いを伝えたい。そう願う人々が、あちこちから集まってきた。
人々が横につながり、意見を表明することは、民主主義の原点である。民主主義とは、ふつうの人々が政治の主人公であるということだ。国の場合は、議会制による間接民主主義とならざるを得ないが、重大局面で政治を、そして歴史を動かすのは一人ひとりの力なのだ。
米国の公民権運動を勇気づけたキング牧師の「私には夢がある」という演説と集会。ベルリンの壁を崩した東ドイツの市民たち。直接民主主義の行動が、国の政治を動かすことで、民主主義を豊かにしてきた。
日本でも、60年安保では群衆が国会を取り囲んだ。ベトナム反戦を訴える街頭デモも繰り広げられた。それが、いつしか政治的なデモは沖縄を除けば、まれになった。政治的な訴えが通らない現実に、あきらめが先に立ったからだろうか。
しかし、東日本大震災から半年あまり、この国のどこか深いところで変化が起きている。とりわけ「脱原発」のうねりは、かつてない勢いで広がる。
もはやプロの政治家に任せてはいられない。生活、命、そして子どもたちの未来をどうするのか。同じように差し迫った不安や不満を抱く人と手を携え、政治にもの申そう。そんな思いが共鳴しあう。
「私らには民主主義の集会や市民のデモしかない。しっかりやりましょう」。呼びかけ人の一人、作家・大江健三郎さんの言葉が象徴的だ。「脱原発」は、私たちの民主主義に新たな一ページを刻む動きに見える。
今までにない形で人々の手をつないでいくインターネットの普及も、集会を活気づける。
この絆を太くし、現実の変革につなげるには、もっともっとたくさんの手が要る。新聞や放送などのメディアが変化に注目し、政党や政治家も問題意識を共有することが欠かせない。


(2011年9月21日の朝鮮日刊新聞社説)

またまた、例の「村野瀬玲奈の秘書課広報室」で知ったんだけど、と言うより、自分で情報収集するのが面倒なので利用してるんだけど、この「脱原発集会」とやらは、やっぱりと言うか、「脱原発を実現し、自然エネルギー中心の社会を求める全国署名」運動の一環らしい。
けど、9月11日の投稿で解説したとおり、朝鮮日刊新聞は民主主義を騙っているにすぎない。
そして、前回の投稿で解説したとおり、再生可能エネルギーは憲法否定と表裏一体。
にもかかわらず、「大穢健三郎」が現れ、しかも、東電から甘い汁を吸い続けてきた朝鮮日刊新聞を糾弾するどころか、あべこべに、朝鮮日刊新聞に同調しているわけだけど、だからこそ、朝鮮日刊新聞が「大江健三郎さんの言葉が象徴的だ」と囃し立てているわけだけど、それも当然なんだな。
大穢健三郎は「似非反核」であり「似非護憲」だから、ね。


大江さん、日本は再び核の犠牲に 仏紙と会見
【パリ共同】ノーベル賞作家の大江健三郎さんは17日付フランス紙ルモンドのインタビュー記事で、東日本大震災に伴う福島第1原発の事故に触れ「日本の歴史は新たな局面に入った。再び(核の)犠牲者とのまなざしを浴びるということだ」との考えを示した。
大江さんは記事で、第2次大戦中の広島と長崎への原爆投下に言及し「核の炎を経験した日本人は、核エネルギーを産業効率の観点で考えるべきではない。つまり成長の手段として追求すべきではないのだ」と表明。
「地震や津波など今回の自然災害に際して、広島の経験を記憶に刻み付ける必要がある」とした上で「原発がいかに無分別なものかを証明した今回の過ちを繰り返すことは、広島の犠牲者の記憶に対する最悪の裏切りだ」として原発依存を強めている日本のエネルギー政策に対して強烈な異議を申し立てた。


(2011年03月17日木曜日 河北新報)

いわゆる「原子力ムラ」の原子力工学者達が激しく批判されているけど、そして、それは当然だけど、だからと言って、彼らは国民を殺そうと思って原子力を推進したわけじゃあない。
一方、「広島と長崎への原爆投下」は米国の公文書において「実験」と明記されてる。
すなわち、「広島と長崎への原爆投下」は無差別大虐殺が目的だった。
にもかかわらず、「広島と長崎への原爆投下」と福島原発災禍を同列に並べて、「再び(核の)犠牲者とのまなざしを浴びるということだ」だの、「広島の経験を記憶に刻み付ける必要がある」だの、「広島の犠牲者の記憶に対する最悪の裏切りだ」だのと言い放つのは、米国による戦争犯罪を日本人に転嫁しようと図る、許すべからざる妄言であり、正に日本国民に対する「最悪の裏切りだ」。
しかも、選りにも選って、リビア侵略を画策していたフランスのインタビューに応じているわけで、それは反戦に対する「最悪の裏切りだ」。
さらに、これを見よ。


ノーベル賞の大江さん広島で講演 「非核三原則法制化を」
ノーベル文学賞受賞者で著書「ヒロシマ・ノート」でも知られる作家大江健三郎さん(75)が2日、広島市で講演し「わたしたちは『核抑止力は間違っている』と日本政府に認識させ、非核三原則を法制化することが核戦争防止に有効だと世界に呼び掛けなければならない」と訴えた。
「広島の平和思想を伝える」と題された講演会には市民約1200人が参加。大江さんは約50年前に広島で出会った医師との思い出を語り「自らも被爆しながら、被爆者の治療と研究に生涯をささげた先生がわたしにとっての『人間のモデル』だった」と振り返った。
さらに「核なき世界」を提唱するオバマ米大統領の登場などを挙げ「核兵器全廃は10年ではできないが、20年たったら全廃以外ないとあらゆる国の政治家も民衆も心を決める時代が来るだろう」と期待。「広島、長崎の被爆者の運動がこれまで65年間、第3の被爆都市が出現するのを防いできた」とたたえた。


(2010年10月2日 【共同通信】)

オバマの「核なき世界」に賛同したという事実は、大穢健三郎が実は戦争賛美者、核兵器賛美者に他ならないことを完全に露呈したと言える。


平和賞受賞演説 「正しい戦争」などあり得ず
「核兵器なき世界」実現などを提唱したオバマ米大統領に、ノーベル平和賞が贈られた。ノルウェーの首都オスロでの受賞演説で、オバマ氏は、核拡散防止条約(NPT)を「外交政策の要」と表明。北朝鮮とイランに対し、核不拡散体制を悪用しないよう警告した。
一方で、オバマ氏は「戦争という手段には平和を守る役割もある」と説き、イラクとアフガニスタンで戦争を遂行している米軍最高司令官としてのジレンマもにじませた。
米国が自国に甘く、他国に厳しいのは単独行動主義に走ったブッシュ前政権時代に顕著だった。オバマ政権も、同じ失敗を繰り返すというのか。単独行動と決別し、国際協調路線に転じたことは評価するとしても、自らが行使する武力について「正当化される」とする姿勢には同意できない。
「自衛のための戦争」容認は、大統領就任前からイラク戦争に一貫して反対してきたオバマ氏とも思えない。報復の連鎖で、兵士よりも市民におびただしい犠牲を出しているアフガンなどの現状を見れば、紛争も致し方なしとはならないだろう。
受賞演説でオバマ氏は、米公民権運動指導者のキング牧師や、インド独立の父ガンジーを評価する一方、2人の非暴力主義は「いかなる場合でも現実的で可能だったわけではない」と指摘した。これも戦争を真正面からとらえる異例の見解だ。
確かに、国際テロ組織アルカイダなどの犯行は許されるものではない。国際社会が結束して対応する必要がある。ただ、大規模な軍隊を次々と投入し、泥沼の戦場と化してしまっては市民が巻き込まれ、惨劇を広げるだけである。
激しい地上戦を体験し、戦争の実相を知る沖縄の人々からすれば「正しい戦争」などあり得ないというのが道理だろう。
オバマ氏は「彼ら(ガンジーやキング牧師ら)が唱えた愛はどんな時もわれわれを導く北極星でなければならない。その信念を軽んじれば道義上の羅針盤を失うことになる」とも呼び掛けた。
その思いがあるなら、殺りくを肯定するような釈明などせず、「いかなる戦いも、犠牲も許されない」と宣言した方が明解だ。それこそ平和賞にも値しよう。核なき世界への一歩は、そこから始まるととらえたい。


(2009年12月12日の琉球新報社説)

あろうことか、ノーベル平和賞授賞式において「正しい戦争」と言い放ったにもかかわらず、そのオバマを賞賛した大穢健三郎は、米国の戦争は「正しい戦争」である、と認めたわけ。
だからこそ、「広島と長崎への原爆投下」の責任を日本国民に転嫁したわけ。
ここで見逃してならないのは、「戦争の実相を知る沖縄の人々」と大穢健三郎が相容れないという事実。
言うまでもなく、それは沖縄県民に対する「最悪の裏切りだ」。
「沖縄ノート」の欺瞞を物の見事に露呈したな。
まあ、小説家だからね。
大穢健三郎の「反戦」「反核」「脱原発」は「フィクション」にすぎないということ。

もちろん、「正しい戦争」は憲法9条に反してる。
であるから、「正しい戦争」を容認した大穢健三郎の護憲もやはり「フィクション」。
しかも、それは憲法自体に拠って証明出来る。
その鍵となるのがこの条文。

日本国憲法43条 両議院は、全国民を代表する選挙された議員でこれを組織する。

前回の投稿でも、議会制民主主義の根幹を成すこの条文に基いて考察したけど、実のところ、投票率が100%でない限り「全国民を代表する」とは言えないはずだな。
けど、それは絶対にあり得ないだろ。
そうすると、国会は常に違憲状態ということであり、逆に、この条文は空文となり、従って、議会制民主主義自体が「フィクション」ということになってしまうが・・・

もちろん、そんなことはあり得ない。
投票率が100%でなくても、43条が保証される仕組みが憲法自体に組み込まれているはず。
それがどの条文か判る?
答えを見つけるのは簡単。
43条よりも前の条文において、「全ての国民=100%」が規定されている条文を探せばいい。
そうすると、答えはこれ以外にはあり得ないだろ。

第1条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。

「総意」は即ち「100%」だから、ね。
後は、天皇と国会との関係を規定した条文を探せばいいだけ。
そうすると、これに行き当たるな。

第7条 天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行ふ。
第2項 国会を召集すること。

憲法43条を保証しているのは、他ならぬこの条文なのよ。
「日本国民の総意に基く」天皇が「国民のために」国会を召集する事によって、投票率が100%でなくても「両議院は、全国民を代表する」ことが担保されているんだな。
天皇が議会制民主主義を保証しているわけ。

ところがだ。
大穢健三郎はノーベル賞を受けながら、文化勲章受賞を拒絶したな。
そのくせ、レジオンドヌール勲章は受けたな。
フランスがリビアを侵略しても、勲章を返上しないな。
つまり、大穢健三郎は反戦でも何でもなく、ただ、天皇から賞を手渡される事を拒絶しただけ。
しかし、天皇が文化勲章を授けることは日本国憲法第7条第7項に基いているのであり、結局のところ、それは憲法1条に基いているわけだから、大穢健三郎は「主権の存する日本国民の総意に基く」天皇を拒絶したということ。
そして、それは「主権の存する日本国民の総意」を否定したということであり、従って、国民主権を否定したということであり、民主主義を否定したということに他ならない。
しかも、1が無ければ、2も3も無いのだから(実際、上で解説したとおり、43条は1条に基いている)、憲法1条を否定したということは憲法全てを否定したということに他ならない。

2月27日の投稿で指摘したとおり、再生可能エネルギー高値買い取りは憲法14条と29条に反してる。
前回の投稿で指摘したとおり、チョンコロ韓直人は昂然と憲法を否定した。
にもかかわらず、大穢健三郎はそのことを決して批判しないけど、大穢健三郎の護憲は全くの虚構にすぎないのだから、それも当然。
そして、護憲を嘯いて、その実は、憲法を踏み躙る大穢健三郎が再生可能エネルギーに突き進んでいるという事実は、前回の投稿で指摘したとおり、憲法を踏み躙るための、民主主義を踏み躙るための「再生可能エネルギー」に他ならないことをハッキリと示したと言える。

そこで、始めの社説を見直すと。

「国の場合は、議会制による間接民主主義とならざるを得ないが、重大局面で政治を、そして歴史を動かすのは一人ひとりの力なのだ」と嘯いているけど、原発の地元で原発停止を訴えてきた人たちの主張と、原発を地方に押しつけてのうのうと東京で暮らしている、大穢健三郎や朝鮮日刊新聞社員のような連中が主張する「脱原発」は、似て非なるものであり、決して相容れない。
(9月11日の投稿でも指摘したけど、目の前にある原発の廃止を訴えてきた市民の「問題意識」を集約するならば、全原発即時廃止という結論以外は出てこない。)
にもかかわらず、「問題意識を共有することが欠かせない」との言い草は、朝鮮日刊・大穢健三郎一派の醜悪な本性を、そして、再生可能エネルギーの邪悪な意図を露呈したんだな。

「脱原発」も最終的には原発全廃を目指しているわけだから、原発即時全廃と全く矛盾するわけではなく、原発を無くすという「問題意識を共有」してるでしょ、と、
「問題意識を共有することが欠かせない」のだから、再生可能エネルギーを進めつつ「脱原発」を進めましょ、と。
そのためには、再生可能エネルギー高値買い取り・発送電分離が必須という「問題意識を共有することが欠かせない」でしょ、と。
そういうことだわ。
しかしながら、「人々が横につながり」だの、「絆を太くし」だの、「問題意識を共有することが欠かせない」だのと言い立てて、その実は、原発即時全廃という「問題意識」を、すなわち、地元において原発の停止・廃止を訴えてきた人たちを、排斥しているわけ。
なぜ、そのような卑劣な手段に訴えるのかと言うと、これまでの投稿で繰り返し解説してきたとおり、再生可能エネルギー高値買い取り・発送電分離で国民から収奪するため。

こちらのウェブサイトでは「自然エネルギーへの転換それ自体は別に悪いことではないかもしれないが、脱原発とのセットで主張することの現実的・政治的意味を考える必要があるだろう。それは、何が何でも原発を維持するために、原発依存度の低下と再生可能エネルギーの促進などの「ベストミックス」を唱える政府の原発延命策に利用・回収されてしまう恐れが大きいのではないだろうか」と指摘してるけど、そして、それには一理あるけど、再生可能エネルギーを喚き立てている連中は、原発事故を利用して日本国民から毟り盗ろうと目論んでいるだけ。
原子力ムラよりも邪悪な連中。
「脱原発集会―民主主義が動き出す」ではなく、実は、「再生可能エネルギー集会―反民主主義が動き出す」ということ。

結局のところ「重大局面で政治を、そして歴史を動かすのは」、8月6日の投稿8月10日の投稿で採り上げた孫腐正義や、8月18日の投稿8月26日の投稿で採り上げた”金子KO負け”や、4月24日の投稿8月30日の投稿で採り上げた飯田哲也、そして、大穢健三郎や朝鮮日刊新聞などの「一握りの力」にすぎない。
この真実から目を逸らすために、「民主主義とは、ふつうの人々が政治の主人公であるということだ」だの、「一人ひとりの力なのだ」だの、「私らには民主主義の集会や市民のデモしかない」だのと嘯いて、国民一人一人が参加しているような錯覚を起こさせるんだな。
例の「事業仕分け」と全く同じペテン。
8月30日の投稿前回の投稿で解説したとおり、「民主主義を騙るファシズム」。
これまではチョンコロ民主党が担ってきたけれど、これからは、大穢健三郎が中心となって推進しようというわけ。

反核を騙り、護憲を騙り、民主主義を騙り、その実は、原発事故に乗じて憲法を踏み躙り、民主主義を踏み躙る、最低最悪のファシスト。
それが大穢健三郎の正体。

「ええじゃないの 憲法なくてもええじゃないの」と踊り歩く大穢健三郎がいる。
「ええじゃないの 民主主義なくてもええじゃないの」と踊り歩く大穢健三郎がいる。

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