自然エネルギーのトッカータと自己中のフーガ

バッハ「トッカータとフーガ BWV565」

今日今晩は。
「国際環境NGO(嘘)RealCrazyClimate」の会員某で~~~す。

今日はこの記事を見てもらおうかね。


「脱・東電」じわり 住宅に太陽光発電、工場に自家発電
計画停電に「自衛手段」
2012/3/10付
東日本大震災から11日で1年。福島第1原子力発電所事故後の計画停電の体験や電力供給不安から、東京電力の供給に頼らない「脱・東電」の動きが首都圏でじわりと広がっている。太陽光発電装置を設置した住宅の人気は高く、東電以外の事業者から電気を調達したり、自家発電装置を設けたりする動きは中小企業にも波及している。消費者の「節電志向」は定着しており、暮らしと電気の関係は変化してきた。
「東電だけを頼りにする…


(日本経済新聞 夕刊)

テメエら、太陽光発電の余剰電力を東電に買い取らせてるだろ~が。
どこが、「脱・東電」だ?
しかも、これからは高値で買い取らせる。
さらには、家庭の太陽光発電全量買い取りも模索してる。
3月20日の投稿で紹介した朝鮮日刊新聞社説は「ただし、買い取り費用は電気料金に上乗せされる。負担するのは消費者だ」と言ってたけど、「太陽光発電装置を設置した」家庭は自分も売るわけだから「電気料金に上乗せされ」ても「負担する」とは言い難い。
結局のところ、「負担する」のは「太陽光発電装置を設置できない」家庭なんだな。
本当に「脱・東電」なら、東電に買い取らせるなっ!つ~の。

しかも、「太陽光発電」ではまともな「発電」はできない。
例えば、2011年8月22日の投稿で採り上げた浮島太陽光発電所の発電実績を見ると。

激しく変動してるな。
こんな不安定な代物に電力供給を委ねることなどできるはずもない。
だから、電力を安定供給するためには、太陽光発電の有無にかかわらず、火力発電が必要になる。
太陽光発電を増やしても、火力発電を大幅に減らせるわけじゃあない。
つまり、必要もない太陽光発電を無理矢理に稼動し、必要も無いのに無理矢理に買い取りさせられている、ということなのよ。
こんな阿呆な話があるかっ!つ~の。

(東電が太陽光発電を稼動しているのは、2011年4月13日の投稿で紹介したとおり、「温暖化対策」とやらが理由。けど、いま言ったとおり、火力発電は減らせないからCO2は減らせない。であるから、火力発電を減らしたいなら原子力、ということになる。つまり、東電が太陽光発電を稼動した当初の目的は福島原発を正当化することだった。このことと、人為的温暖化を煽り立ててきたWWFが東電に地球環境大賞を授与したということは、人為的温暖化詐欺が原子力を正当化する名目を与えたという事実をハッキリと示している。人為的温暖化が本当ならば情状酌量の余地もあるけど、サイドバーにアップロードしている”「地球温暖化懐疑論批判」の不都合な真実”で解説しているとおり、IPCCの人為的温暖化論は虚構なのだから、人為的温暖化論の、そして、それを煽り立ててきた連中の罪は深い。)

もちろん、自分が設置した太陽光発電だけで生活するのなら、それは大いに結構なことだけど、実は、東電の電力に頼り、そのくせ、東電に電力を高値で買い取らせ、しかも、それを他人に転嫁しながら、「脱・東電」などと悦に入ってる連中は救い難い「自己中」だと断言できる。

既に2011年8月14日の投稿で紹介したけど、もう一度これを見てもらおうかね。


『俺俺』で大江健三郎賞受賞の作家・星野智幸さん 震災後も不毛な対立に終始する政治
2011.5.17 07:55
他人への想像力を欠いた「俺」が無限に増殖していく。そんな現代日本を描き出した長編『俺俺』(新潮社、1680円)で第5回大江健三郎賞に決まった星野智幸さん(45)。政治や社会状況を積極的に扱う気鋭の作家は「不毛な二項対立が繰り返されている原発の議論を見る限り、政治の状況は以前と何も変わっていない」と大震災後の社会を冷静に見つめている。 東京近郊の家電量販店で働く「俺」は、マクドナルドの店内で隣に座った男の携帯電話を手に入れ、出来心で振り込め詐欺を実行する。ところが、なぜか「俺」はだました母親の本当の息子になり、本当の実家に行くと知らない男が「俺」を名乗って生活していた。やがて周囲のみんなが「俺」になり、果ては「俺」同士の殺し合いが始まる…。そんな奇抜で不条理な物語『俺俺』は、誰もが代替可能な存在になり、自意識の崩壊に直面する現代人の苦悩を浮き彫りにする悲喜劇であると同時に、ともすれば自己中心的な言説が幅をきかせる日本社会への痛烈な批評にも読める。
みんなが自己中心的になっているので、自己中心的だという意識すら消えてしまう状況。選挙や世論調査など社会のさまざまな局面を見て感じていたことです」と、星野さんは執筆時の心境を振り返る。
刊行は昨年6月。東日本大震災発生直後、誰もが『無私』の精神を体現しているように見え、「『俺俺』は過去のもの」と感じたが、日がたつにつれ「やはり現在の作品」との思いが強くなったという。
「自己中心的といえば、(首都圏での)買い占めも原発をめぐる議論もそう。本当に重要な問題は置き去りにされて、反原発か原発か…と対立ばかりにエネルギーが注がれている。福島とか新潟とか、原発を誘致することで生きていこうとした人たちの複雑で、声にならない声を聞く気持ちはないのかな、と感じた
文芸賞を受けたデビュー作『最後の吐息』から14年がたつ。「政治と文学のかかわりを徹底して考えてきた大江(健三郎)さんをモデルケースとして吸収しながら成長してきた」だけに、大江さん一人が選考にあたる同賞受賞の喜びはひとしおだ。
「誰もが無意識の領域に押し込めて、見ないようにしている部分を可視化することで現実と正面から向き合うのが僕の小説。震災後もそのスタンスは変えないつもり。ただ読んだ人が何か力を得られるようなものは、もっと見いだしていきたい」(海老沢類)


(MSN産経ニュース)

太陽光発電装置を設置して「脱・東電」などと悦に入ってる連中は、「自己中心的だという意識すら消えてしまう状況」の象徴だと言える。
しかし、この「自己中」の元凶は「再生可能エネルギーで脱原発依存」を唱えている連中。
2011年10月31日の投稿3月14日の投稿、そして、3月20日の投稿で指摘したとおり、「再生可能エネルギーで脱原発依存」を唱えている連中は正真正銘のネオリベ。
ネオリベこそ「自己中の中の自己中」。
究極の自己中。
究極の自己中が再生可能エネルギーを唱え、朝鮮日刊新聞を始めとするメディアがそれを正当化して煽り立てれば、一般国民がそれに倣うのは理の当然。
と言うか、「再生可能エネルギーで脱原発依存」を唱えている連中は、新自由主義を根づかせるために、国民が自己中に陥る社会的状況を創り出そうとしている。
始めに紹介した記事はその結果であり、「再生可能エネルギー」の本質が「自己中」であるという真実を映し出しているんだね。
3月7日の投稿でも指摘したとおり、この真実をカモフラージュするために、やたらと「絆」を強調するんだな。

3月8日の投稿3月11日の投稿、そして、前回の投稿で指摘したとおり、「再生可能エネルギー」のために被災者が切り捨てられつつあるけど、「再生可能エネルギー」の本質が「究極の自己中」である以上、それは必然。
健全な社会を再生し、真の復興を成し遂げるために、「自己中」の「再生可能エネルギーで脱原発依存」派を駆逐せよ!

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