フランスの山師の歌による自然エネルギー交響曲

ダンディ「フランスの山人の歌による交響曲」より第三楽章

今日今晩は。
「国際環境NGO(嘘)RealCrazyClimate」の会員某で~~~す。
今日は4月3日の投稿の補足を。

大穢健三郎は、おフランス野郎の「日本人は、民主主義よりお金もうけを優先させる経済発展モデルの悪弊に気づくでしょうか?」という質問に応えて、こんなことほざいてたな。


私は、市民社会が目を覚まして代替エネルギーの開発を求め、地震学者たちの警告に耳を傾けるよう求めることを望んでいます。福島で事故が起きて以来、何事も良心に照らして考えなければならなくなりました。原子力エネルギーを単なる経済生産性の観点からのみ評価することはできなくなったのです。


(「大江健三郎へのインタビュー(2)」より)

2011年10月3日の投稿で紹介したとおり、大穢健三郎が主導した「脱原発集会」は、実のところ「自然エネルギー中心の社会を求める全国署名」だったわけだから、「代替エネルギーの開発を求め」とは自然エネルギーのことだね。
であるから、「単なる経済生産性の観点からのみ評価することはできなくなった」とは、コストが高くついても自然エネルギーを普及させるべきだということであり、つまり、ドイツ、または、それ以上の高値買い取りを主張しているんだな。
また、前回の投稿でも論じたとおり、自然エネルギーは電力自由化と表裏一体であり、電力自由化とは「需給に応じて変動する電気料金にする」ことだから、「単なる経済生産性の観点からのみ評価することはできなくなった」とは、安定した電力を供給できない自然エネルギーを普及させた結果として電力不足に陥った時に電気代が上がるのは仕方ない、と言うに等しい。

けど、高値買い取り・電力自由化とは、発電できる時は高値買い取りで利を貪り、発電できなくても電気代を吊り上げて利を貪るということであり、一方、電気代を払えない貧乏人は熱中症で死んでもいい、ということに他ならない。
それでも、大穢健三郎はこう言い張るんだな。
自然エネルギーの普及は国民全体の利益になるのだから、「高値買い取りで利を貪り、電気代を吊り上げて利を貪る」などと批判すること自体が、そして、貧乏人に目を向けること自体が「単なる経済生産性の観点からのみ評価する」ことだ、と。

けど、それは大穢健三郎の醜悪な正体を露呈したと言える。
「経済」とは本来は「経世済民」のこと。
私めが自然エネルギーを弾劾するのは、それが新自由主義に根ざしており「経世済民」に反するから。
逆に、大穢健三郎は「単なる経済生産性の観点からのみ評価することはできなくなった」と嘯きつつ、その実は、新自由主義を肯定しているんだな。
その証拠に、大穢健三郎が郵政民営化を批判したなんて聞いたことないだろ?
Oui。
大穢健三郎は反日ネオリベファッショだろ?
Oui。

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