「海の日」の大政翼賛デモ

ヴォーン・ウィリアムズ「海の交響曲」より

今日今晩は。
「国際環境NGO(嘘)RealCrazyClimate」の会員某で~~~す。

先週の投稿で弾劾したばかりなのに、またもや、大穢健三郎が国民を騙しているようだな。


東京の脱原発集会に17万人 「命危険にさらすな」
2012年7月16日 17時08分
脱原発を目指して作家の大江健三郎さんらが呼び掛けた「さようなら原発10万人集会」が16日、東京・代々木公園で開かれ、主催者発表で約17万人が参加した。
呼び掛け人の一人、音楽家坂本龍一さんは登壇し「電気のために美しい日本、国の未来である子どもの命を危険にさらすべきではない」と訴えた。大江さんは「原発大事故がなお続く中で、関西電力大飯原発を再稼働させた政府に、侮辱されていると感じる」と怒りをあらわにした。
公園周辺の歩道は一時、身動きが取れなくなるほどの人波だった。参加者は猛暑の中、トークや音楽ライブに耳を傾け、都内をパレードした。


(共同)

4月3日の投稿で紹介したとおり、大穢健三郎は「私が最も絶望させられたのは、電力会社、政府の役人、政治家、メディア関係者が結託して放射能の危険を隠すために行った『沈黙による陰謀』とも呼ぶべき行為です」と言いながら、6月14日の投稿で紹介したとおり、「陰謀」の主犯であるチョンコロ韓直人と平然と握手したんだね。
国民を「侮辱」しているのはテメエだろ!

7月9日の投稿で紹介したとおり、大穢健三郎は、自分こそは「偉大なる首領様」であるかのごとくに、「3・11の後の私たちの生き方をしっかりとつくっていく」と言い放ち、国民を上から見下ろしたんだね。
国民を「侮辱」しているのはテメエだろ!

日本国民を「侮辱」する大穢健三郎が主導する「脱原発」とは一体何なのか?

4月3日の投稿で紹介したとおり、大穢健三郎は「私は、市民社会が目を覚まして代替エネルギーの開発を求め」と言い張り、2011年8月6日の投稿で紹介したとおり、坂本龍一も「自然エネルギー普及の思いを多くの人に共有してもらうために引き続き取り組む」と言い張っていたけど、2011年4月26日の投稿8月30日の投稿2012年1月5日の投稿7月2日の投稿、そして、前回の投稿で紹介したとおり、原発が無くても電力は足りているにもかかわらず、そんなことを言い立てるのは、電力が足りているという事実を覆い隠す以外の何物でも無く、その挙句に、「電気のために美しい日本、国の未来である子どもの命を危険にさらすべきではない」と言い張るのは、国民は電気を使うな、と言うに等しいな。

前回の投稿で指摘したとおり、原子力ムラの科学者・技術者たちは、少なくとも当初は、国民全員が電気を享受できる社会を創り、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む(憲法25条)」ことが出来るようにしたい、という理想に燃えていたけれど、大穢健三郎や坂本龍一らは、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」なんか無い、と言い立てているんだね。

それをさらに裏づけるのがコレ。


議事堂に人の波と聞けば、血が騒ぐ世代もあろう。1960年6月、日米安保条約の改定に走る岸首相に対し、国会周辺では抗議の嵐が渦巻いた。東大女子学生の圧死を受けたデモには主催者発表で33万、警察調べで13万人が参加した▼おとといの夜、国会や首相官邸の一帯は、脱原発を叫ぶ人波で埋まった。300人で始まった「金曜集会」は回を重ねて膨らみ、万人単位の催しになっている。国政の中心地に群衆が何度もあふれるのは「安保」以来のことらしい▼ただ、学生や労組、左派政党の動員が主だった半世紀前とは趣が違う。風船を持つ親子、勤め帰りの男女、見物がてらのお年寄り、「麗しき山河を守れ」と日の丸を掲げる一団まで、ありていに言えば社会の縮図である▼日ごろ政治には縁遠くても、ことが自分や家族の健康にかかわるとなれば人は動く。危機感が共有されていく勢いは、個々が携えた情報発信の飛び道具により、立て看板とビラの時代の比ではない▼福島の事故が人災なら、どこで再発してもおかしくはない。ところが、それを案じる約750万筆の署名に、政府は大飯原発の再稼働で応じた。声が届かないなら、届く大きさにするしかない▼東京の代々木公園であす、大江健三郎さんや瀬戸内寂聴さんが呼びかけた「さようなら原発 10万人集会」がある。猛暑でも雨でも、原子力に頼らぬ覚悟を試すにはふさわしい舞台だろう。アジサイの季節に広がった運動が大輪に育つかどうかの山場でもある。


(2012年7月15日の「天声人語」)

2011年8月18日の投稿9月11日の投稿で紹介したとおり、朝鮮日刊新聞は原発推進広告を垂れ流して東電から甘い汁を吸ってきた。
そして、報道機関のくせに、原発が無くても電力が足りているという事実を隠し続け、それどころか、2011年8月6日の投稿で採り上げた2011年7月22日の社説では「電力不足―西日本も、さあ節電だ」だの、2012年4月18日の投稿で採り上げた2012年4月13日の社説でも「原発再稼働と節電―大阪発で変えてみては」だの、5月18日の投稿で採り上げた2012年5月8日の社説でも「夏の節電―関電こそ先導すべきだ」だのと喚き立て、これまた5月18日の投稿で採り上げた2012年4月25日の社説に至っては「夏の節電―急げ、急げ、もっと急げ」と煽り立ててきた。
その挙句に、お前たち一般国民の「覚悟を試す」、と言い放ったんだね。
2011年9月11日の投稿で採り上げた2011年7月13日の朝鮮日刊新聞社説でも「多くの国民も電力の源についてとくに考えずに、好きなだけ電気を使う生活を楽しんできた」と言い放ち、同じ投稿で採り上げた2011年8月15日の朝鮮日刊新聞社説に至っては、「この人任せと無責任が、度重なる失敗の根底にあるのではないか」と国民を非難した挙句、己らは東電から甘い汁を吸っていたくせに、ヌケヌケと「健全で利害から独立したジャーナリズムが果たすべき責任と役割は重い」と言い放った。
これこそ「侮辱されていると感じる」だろ!
要するに、国民を完全に見下しているわけで、であるから、「覚悟を試す」とは、一般国民ごときが「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」を主張するなどおこがましい、これからは「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」など無いことを「覚悟」しろ、と言うに等しいんだね。

そもそも、「私(大穢健三郎)が最も絶望させられたのは、電力会社、政府の役人、政治家、メディア関係者が結託して放射能の危険を隠すために行った『沈黙による陰謀』とも呼ぶべき行為です」ならば、しかも、東京に住んでいるのならば、関西に口出しする以前に、「電力会社、政府の役人、政治家」と一体となって原発を推進してきた朝鮮日刊新聞本社に押しかけるべきだろ。
朝鮮日刊新聞不買運動を起こすべきだろ。
けど、それだけは決してしない。
何故か?
4月3日の投稿で指摘したとおり、これまでは「電力会社、政府の役人、政治家、メディア関係者が結託して」きたけど、これからは、電力会社にとって代り「大穢健三郎一派、政府の役人、政治家、メディア関係者が結託」して、自然エネルギー・電力自由化を推し進めて、「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」を奪い去ろうとしてるんだな。
「私たちの生き方をしっかりとつくっていく」とは正にこのことなのよ。

3月7日の投稿でも指摘したけど、本当に電力が足りなくて、本当に「電気のために美しい日本、国の未来である子どもの命を危険にさらすべきではない」のなら、携帯電話なんか真っ先に捨てるべき。
1月5日の投稿で採り上げた2011年12月29日の朝鮮日刊新聞社説は「それが競争を促し、インターネットや携帯電話などの新ビジネスへ結びついた」などと持ち上げていたけど、携帯電話なんか無くても生活できる。
むしろ、携帯電話が普及した結果、「ケータイを持ったサル」と題する本が象徴しているとおり、文化の荒廃が著しく進んだ。
にもかかわらず、「危機感が共有されていく勢いは、個々が携えた情報発信の飛び道具により、立て看板とビラの時代の比ではない」ということは、7月9日の投稿で指摘したとおり、このデモが「ポピュリズム」にすぎないことを露呈しているんだな。

かつての戦時下、携帯は言うまでもなく、テレビも無かった。
朝鮮日刊新聞は戦争を煽り立てたけど、実のところ、殆どの家庭は新聞さえ購読していなかった。
翼賛報道があろうがなかろうが、国民は事実を知る術を持っていなかった。
それに対して、今は、新聞・テレビどころか、殆ど全ての国民が携帯電話まで持っている。
つまり、国民は事実を知る道具を有している。
ところが、新聞もテレビも原発は無くても電力が足りているという事実を隠し、国民を騙し続けている。
国民を騙して「電力不足という危機感を共有させていく勢いは、太平洋戦争時代の比ではない」んだな。

もちろん、国民がそれに対抗する手段がある。
それが「個々が携えた情報発信の飛び道具」のはず。
けど、権力側もそれは百も承知で、権力側も「ケータイを持ったサル」を動員し、「脱原発」と称して自然エネルギー・電力自由化を推し進め、「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」を奪い去ろうと企んでいるんだな。
それがこのデモなのよ。
東電から甘い汁を吸ってきた朝鮮日刊新聞が「危機感が共有されていく勢いは、個々が携えた情報発信の飛び道具により、立て看板とビラの時代の比ではない」と言い放ったのはそれ故。

米国に住んでいる野郎に、であるから、原子力の電力を使って贅沢三昧している野郎に「電気のために美しい日本、国の未来である子どもの命を危険にさらすべきではない」などと言われても、「侮辱されていると感じ」ないの?
4月22日の投稿へのコメントは「左翼右翼はもういいさ。同じ人間だろう」と言い立ててたけど、ノーベル賞受賞者も「同じ人間」のはずなのに、「私たちの生き方をしっかりとつくっていく」などと高言されても、「侮辱されていると感じ」ないの?
感じないなら、本物の「サル」だな。

もう一度、言うけど。
原発が無くても電力は足りているのだから、本当に原発を無くしたいのなら、電力は足りていると、声を大にして叫ぶだけでいい。
もちろん、電力は足りているのだから、必要もない自然エネルギーを高値で買い取らせ、それを電気代に転嫁するなど以ての外。
であるから、再稼動を糾弾することと、自然エネルギー買い取りを糾弾することは同一。
デモをするなら、自然エネルギー買い取り制度にも抗議しなければならない。
逆に、自然エネルギー買い取り制度に反対しない「脱原発」デモは、自然エネルギー・電力自由化を推し進めるための翼賛運動にすぎない。

6月24日の投稿で紹介したとおり、国民を排除して自然エネルギー買い取り価格が一方的に決められてしまい、その結果、6月30日の投稿で紹介したとおり、電気代が大幅に上がってしまった。
であるから、買い取り制度を糾弾することは、民主主義を回復するためにも不可欠。
ところが、4月3日の投稿で紹介したとおり、あべこべに、大穢健三郎は「今回の事故で明らかになったのは、日本社会の民主主義が脆弱なものであったということです。・・・・私は、市民社会が目を覚まして代替エネルギーの開発を求め」と言い放ったんだね。
5月21日の投稿6月27日の投稿で解説したとおり、大穢健三郎や朝鮮日刊新聞らの「自然エネルギーで脱原発依存」派は、卑劣にも民主主義を騙って、その実は、民主主義を否定してるんだな。

自らの目で見、自らの耳で聞き、自らの頭で考えようとしないから、大穢健三郎や坂本龍一らのような偽者に騙されて、翼賛体制に組み込まれてしまうんだよ。
我思う、ゆえに我あり。
逆に、我思わざりき、ゆえに「ケータイを持ったサル」あり。
「サル」が17万匹集まっても、日本国民には関係ね~よ。

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