「暗い目をした男」の主題による「脱原発」変装曲

チャイコフスキー「ロココの主題による変奏曲」

今日今晩は。
「国際環境NGO(嘘)RealCrazyClimate」の会員某で~~~す。

昨日の朝鮮日刊新聞社説はこんなこと書いてるが。


維新の変節―白紙委任はしない
原発はゼロにするかもしれないし、しないかもしれない。環太平洋経済連携協定(TPP)には参加するかもしれないし、しないかもしれない――。
太陽の党と合流して日本維新の会の主張が、がぜんあいまいになった。代表代行になった橋下徹大阪市長は街頭演説でこう言い切る。
「政治に必要なのは政策を語ることではない。組織を動かし、実行できるかどうかだ」
自分や太陽の党を立ち上げた石原慎太郎代表は大阪と東京で行政トップを経験し、組織を動かす力がある。どう動かすかは任せてほしいといわんばかり。だとすれば、有権者に求められているのは政策の選択ではない。白紙委任である。
維新は、党規約に明記していた企業・団体からの政治献金の禁止を、撤回した。「選挙を戦えない」という太陽側の意向を受け、上限を設けて受け取ることにしたという。
「脱原発」は看板政策だったはずだが、揺らいだ。
安全基準のルールをつくれば「自然に」2030年代までにゼロになると橋下氏はいう。だが、確固とした政治的な意志のないまま、そんなルールをつくり運用できるだろうか。
TPPについては、主要政策集「維新八策」で「参加」としていた。太陽との合意文書では「交渉に参加し、国益に沿わないなら反対」と後退した。
維新八策への「100%賛同」は候補者の条件だったが、骨抜きになったようだ。当初はオープンな議論で政策を一致させるといっていたのに、協議の中身や経緯も明らかでない。
主要政策がここまであやふやになっては、維新はもはや維新ではなくなったともいえる。
党の特徴を放棄してでも石原氏との合流を優先したのは、「まずは議席数」という選挙戦略からだろう。
内政から外交まで閉塞(へいそく)感がぬぐえない今日、とにかく何かをしてくれる政治家に頼りたい、理念よりも力強さや行動力にかけてみたいという誘惑は強い。しかし、その「何か」がわからないままでいいだろうか。
維新だけではない。ほかの政党もすっきりとした解決策を示しにくい問題について地道に政策を語るより、何かしそうなイメージやスローガンを前面に出すことに熱心だ。
そんな選挙戦に引きずられると結局、「お任せ民主主義」につながる。
それは今の政治をさらに迷走させることにしかならないだろう。有権者も問われている。


(2012年11月24日の朝鮮日刊新聞社説)

国民は国会議員に一票を託すのであり、一大阪屍長に託すわけじゃない。
にもかかわらず、立候補しないと公言している一大阪屍長が「政治に必要なのは政策を語ることではない。組織を動かし、実行できるかどうかだ」などと言い放つこと自体が、議会制民主主義に反している。
そのことを指摘しないで、「どう動かすかは任せてほしいといわんばかり。だとすれば、有権者に求められているのは政策の選択ではない。白紙委任である」などと言うのは全くの的外れ。
「そんな選挙戦に引きずられると結局、『お任せ民主主義』につながる」などと嘯いてるけど、この一事だけを以ってしても、「左翼」が民主主義の意味を理解していないことは明らかだな。

「節」とは何か?
己の信ずる考え、志、行動などを貫き通して変えないこと。
けど、「暗い目をした男」は核武装を広言していたわけで、「節」などあろうはずがない。
にもかかわらず「『脱原発』は看板政策だったはずだが、揺らいだ」などと、つまり、「脱原発」は「暗い目をした男」の「節」だったはず、と言い立てているんだね。
こんな嘘を平然と吐く「左翼」が煽り立てる「脱原発」とは「何か」?
「その『何か』がわからないままでいいだろうか」?

「脱原発の何か」を判るためには、「暗い目をした男」が大阪でやってきたのは「何か」を知る必要がある。
破廉恥にも「自分や太陽の党を立ち上げた石原慎太郎代表は大阪と東京で行政トップを経験し、組織を動かす力がある」などと喚いてるけど、11月15日の投稿で指摘したとおり、「暗い目をした男」が大阪でやってきたのは弱者切り捨てのみ。
弱者切り捨てが「民主主義に異心を抱く会」の「看板政策だった」。
ところが、「その『何か』がわからないままでいいだろうか」と言い立てながら、「暗い目をした男」が大阪でやってきた「何か」には頬かむりを決め込み、「とにかく何かをしてくれる政治家に頼りたい、理念よりも力強さや行動力にかけてみたいという誘惑は強い」と、まるで、「暗い目をした男」は「行動力」がある、と言わんばかりの言い草は、弱者切り捨てを是認する以外の何物でも無いだろ。
であるから、表向きは「『脱原発』は看板政策だったはず」で、裏では、弱者切り捨てが「看板政策」であったという事実は、「左翼」の煽り立てる「脱原発」が弱者切り捨てと本質を同じくする事を意味してるんだね。

そもそも、どの政党であろうが「白紙委任」しないのは当たり前だろ!
それなのに、「維新はもはや維新ではなくなった」と言い立てた挙句、殊更に「維新の変節―白紙委任はしない」と言うのは、ダイオキシンタロウと一緒になったから「白紙委任はしない」と言っているにすぎず、であるから、ダイオキシンタロウと一緒になる前ならば「白紙委任」すべき、と言う以外の何物でも無く、「そんな選挙戦に引きずられると結局、『お任せ民主主義」につながる』という台詞が欺瞞にすぎないことを、そして、「左翼」が「暗い目をした男」を利用して「脱原発」を推し進めようとしてきたことを露呈してるな。

「左翼」の煽り立てる「脱原発」とは「何か」?
それは自然エネルギー・電力自由化。
では、自然エネルギー・電力自由化とは「何か」?
8月31日の投稿9月10日の投稿9月12日の投稿、そして、11月11日の投稿で論じたとおり、自然エネルギー・電力自由化は「原発ゼロ」を阻害するだけ。
11月12日の投稿11月17日の投稿で解説したとおり、自然エネルギー・電力自由化は「強者が弱者に痛みを強いる」だけ。
「左翼」の「脱原発」こそ「変節」。
「その真実がわからないままでいいだろうか」?

「その『何か』がわからないままでいいだろうか」と嘯いてるけど、実は、「わからないままでいい」と思ってるんだね、「左翼」は。
って言うか、「何か」を知られては困るんだね。
だからこそ、2011年8月18日の投稿で採り上げた2011年5月20日の朝鮮日刊新聞社説が「自然エネルギーの活用を進めるためにも、分散型への転換が望ましいのは明らかである」だの、2011年9月11日の投稿で採り上げた2011年7月13日の朝鮮日刊新聞社説が「自然エネルギー源は各地に分散していて地域密着の発電になるので、自由化による新規参入が欠かせない」だの、11月11日の投稿で採り上げた2012年11月9日の朝鮮日刊新聞社説が「多様なエネルギー事業者が平等に競える環境づくりへと、東電のもつ機能を分散していく方向で改革を進める必要がある」だのと決めつけていたんだね。
その結果、6月2日の投稿6月24日の投稿で紹介したとおり、「どう動かすかは任せてほしいといわんばかり」に、自然エネルギー・電力自由化を一方的に推し進めている。
「有権者に求められているのは」、自然エネルギー・電力自由化を黙認することだけ。
だからこそ、9月9日の投稿で採り上げた2012年9月7日の朝鮮日刊新聞社説は「政府のエネルギー・環境会議が示した三つの選択肢では、どの原発比率を選ぶにしても、自然エネルギーの割合を2030年には25~35%に増やすことになっている。目標値はたしかに高いが、悲観的になることはない」と言い放ったんだね。

「維新はもはや維新ではなくなった」などと嘯いてるけど、「民主主義に異心を抱く会」の「脱原発」とは、イコール、電力自由化であり、11月20日の投稿で紹介したとおり、それは些(いささ)かも揺らいでいない。
前回の投稿で指摘したとおり、共産党も「民主主義に異心を抱く会」と同じ穴の狢。
右から左まで、脱原発=自然エネルギー・電力自由化。
実は、国民に「政策の選択肢」は殆ど無い。
「脱原発」こそ「お任せ民主主義」。
この事実を覆い隠すために「そんな選挙戦に引きずられると結局、『お任せ民主主義』につながる」などと嘯いてるんだよ。
5月21日の投稿で採り上げた2012年5月5日の朝鮮日刊新聞社説が「おまかせからの脱却」と嘯いていたのも其れ故。

本当の「原発ゼロ」を実現するために、断固として自然エネルギー・電力自由化を否定すべし!
「お任せ民主主義」から脱却するために、断固として自然エネルギー・電力自由化を否定すべし!
そして、「民主主義に異心を抱く会」を「左翼」と共に葬り去るべし!

広告

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。