白い脱原発と黒い脱原発で

ドビュッシー「白と黒で」

今日今晩は。
「国際環境NGO(嘘)RealCrazyClimate」の会員某で~~~す。

12月1日の投稿へのコメントを見て、ちょっと考えたことを書いてみるよ。

温暖化対策と脱原発という二つの課題を考えた場合、次の四つの意見があって当然だな。

   温暖化対策  脱原発
(0)    ○       ○
(1)    ○       ×
(2)    ×       ○
(3)    ×       ×

にもかかわらず、大勢は「1か0か」の議論になってる。

と言うよりも、「0」が、つまり、再生可能エネルギー+電力自由化を煽り立てる「脱原発依存派」が意図的に「1か0か」の議論にしてるんだよ。
(1)と(2)は対極にあるにもかかわらず、8月22日の投稿で紹介したとおり、虫国野郎は「脱原発で温暖化に懐疑的な人々は『原発依存・化石燃料依存』グループの巨大化・強力化に結果的に貢献してしまっている」と喚き散らして、(2)を(1)と同列に論じ、「1か0か」の議論にすりかえたんだね。
11月26日の投稿で紹介したとおり、「左翼」も「原発再稼動のために自然エネルギーをとめた」と喚き立て、「原発か自然エネルギーか」、つまり、「1か0か」に見せかけようとしたんだね。
性懲りも無く、その後もこんな記事を掲載してる。

20141205012014年12月3日の朝鮮日刊新聞朝刊紙面より

どうしても、「1か0か」の議論にしたいようだな。

但し、「1か0か」が常に間違っているわけじゃない。
「1か0か」が正しい場合もある。
と言うよりも、「1か0か」でなければならない場合もある。
国民の生活を守るか否か、これは「1か0か」しかない。
国民の生活を脅かす者は徹底的に糾弾し、葬り去らねばならない。

だから、上記の(0)から(3)も、この選択こそが国民の生活を守ると考えての主張でなければならない。
そうすると、IPCCのデタラメを真に受けて、国民の生活を守るためには温暖化対策が必要と思い込み、そして、原発はいったん事故が起これば、国民の生活を破壊することが福島で立証されたから、自然災害大国の我国では許されない、と思い定めている人たちが(0)を主張している、ということになる。
一方、(1)は、温暖化対策は(0)と同じだけど、原発を止めたら、原発地元の住民の生活が成り立たなくなるし、電気料金が高騰して弱者はエアコンが使えなくなるし、中小企業の経営が苦しくなり失業者が出るから、再稼動が必要と思い定めている、ということになる。
原発は(1)と同じだけど、IPCCの人為的温暖化説はデタラメだから、温暖化対策に浪費する余裕があるなら福祉や医療などに使うべきと考えている人が(3)を主張している、ということになる。
(2)の私めは、12月1日の投稿で書いたとおり、温暖化プロパガンダこそが原発事故を招いて国民の生活を破壊した、しかも、真の脱原発を阻害し、国民の生活をさらに破壊する、と主張しているわけだ。
けど、それぞれが本当に国民の生活を守ると真剣に考えて主張しているなら、他の主張を一方的に否定できない。
他の主張にも耳を傾けて、正しい部分があるのなら、それは認めねばならない。
だから、私めは、2012年7月9日の投稿7月18日の投稿7月30の投稿8月2日の投稿8月4日の投稿8月11日の投稿8月13日の投稿9月22日の投稿10月14日の投稿10月29日の投稿、そして、今年6月28日の投稿で、原発地元住民を一方的に切り捨てることを指弾し続けてきたんだね。

ところが、どうだ。
(0)の連中は「1か0か」の議論にしようと躍起になってる。
(0)の連中は原発地元住民を平然と足蹴にする。
2012年1月5日の投稿で紹介したとおり、平均年収1300万の「左翼」は「ピーク時の料金を高くするなど料金体系が多様化できる。通信回線で家電と結べば、電気代が安い時間帯を選んでエアコンを動かすなど、もっと賢い節電を考えられる」と、つまり、貧乏人は真夏の真昼にエアコンを使うな、と言い放ったんだね。
2012年5月15日の投稿で紹介したとおり、驚くべきことに、マルクス経済学者も「ピーク時間帯に料金を上げて節電およびピークシフトを促す」と言い張ってる。)
実のところ、国民の生活を守るという意識は無いんだよ。
国民の生活を守るために(0)を主張しているのではない、ということだな。
その真実を白日の下に曝け出したのが東京都知事選挙だろ。

小泉チョン一郎のために、多くの国民が生活を破壊され、死に追いやられた人も数多。
前回の投稿で採り上げた愛媛新聞社説が「もともと小さな政府だったのに、さらに小さくしたのが小泉改革だ。緊縮財政と規制緩和政策をとる口実に、借金大国の宣伝は利用され、社会保障まで削ったために『超低福祉』の国になってしまった」と指弾してたのはその証左。
だから、2013年12月4日の投稿でも言ったとおり、本当に国民の生活を守るための脱原発なら、チョン一郎とは絶対に相容れないはず。
ところが、どうだ。
1月22日の投稿1月26日の投稿2月7日の投稿で紹介したとおり、(0)の連中はチョン一郎の下に集ったんだね。
(ここで注意すべきは、表面的には(2)に見えるけど、実は(0)という連中。広瀬隆ちゅう野郎は、人為的温暖化説を虚構と批判していたはずだが、1月22日の投稿で紹介したとおり、チョン一郎の下に奔った。大阪のお犬様を嗾けて自然エネルギー・電力自由化を吠えさせた古賀茂明を「私たちが最も信頼している古賀茂明さん」と言い放った。この手合い、つまり、隠れ(0)が多いから注意しろよ。)

5月7日の投稿で紹介したとおり、チョン一郎賛美者の腐れ外道が「原発が恋しいなら田母神と一緒に原発作業をしなさい」と喚いてたけど、「左翼」が田母神を罵った社説を見てみると。


東京裁判60年―歴史から目をそらすまい
極東国際軍事裁判、いわゆる東京裁判の判決から60年がたった。第2次世界大戦後に日本の戦争指導者を裁いたこの国際裁判は、東条英機元首相ら7人を絞首刑にするなど、日本の政治家や軍の幹部25人を厳しく断罪した。
はるか昔の裁判だが、今もなお激しい論争の的だ。日本の過去の植民地支配や侵略を正当化した田母神(たもがみ)俊雄・前航空幕僚長の論文でも、東京裁判で認定された日本の戦争犯罪が、今もいわばマインドコントロールのように日本人を惑わしていると批判した。
東京裁判をどう見るかは、有罪となったA級戦犯を合祀(ごうし)した靖国神社に首相が参拝することの是非と結びついている。政治と不可分の問題なのだ。
東京裁判となると、とかく議論が熱くなりがちだ。だが、私たちがまず確認すべきことは、東京裁判が極めて複雑な問題だという冷厳な事実である。「勝者の裁き」か「文明の裁き」かという二元論で、万人の納得のいく解釈はできない。それを単純化して白黒をはっきりさせようというところに、実は大きな落とし穴がある。
論点を整理しよう。東京裁判に問題があるのは事実である。戦争が行われた時点では存在しなかった「平和に対する罪」や「人道に対する罪」で裁くことは、法律学でいう事後法にあたりおかしいという批判がある。日本の戦争犯罪は裁かれたが、米軍の原爆投下は審理されなかった。連合国側だけで判事団を構成した。被告の選び方も恣意(しい)的だった。
その一方で、この裁判の意義も忘れてはならない。裁判を通して戦争に至る道が検証され、指導者の責任を問うた。そのことで、戦後日本社会は過去を清算し、次に進むことができた。
また、独立回復に際してこの裁判を受け入れたことで、国際社会への復帰を果たした。東京裁判はナチスドイツの戦争犯罪を裁いたニュルンベルク裁判と並んで、戦争を裁くためのその後の国際法の発展に寄与した。
こうした両面をそのまま受け入れる必要がある。欠陥に目を向けつつ、この裁判が果たした役割を積極的に生かすのが賢明な態度ではなかろうか。
なぜならば、裁判が十全でなかったからといって、日本がアジア諸国に対する侵略を重ね、最後は米国との無謀な戦争に突入し、膨大な人命を失わせた事実が消えるものではないからだ。日本に罪や責任がなかったということにはならない。
都合の良い歴史だけをつなげて愛国心をあおるのは、もう終わりにしたい。グローバル化は進み、狭い日本の仲間うちだけで身勝手な物語に酔いしれていられる世界では、もはやない。
悪いのは全部外国だ。そう言いつのるだけでは、国際社会で尊敬される日本がどうして築けるだろうか。


(2008年11月13日の朝鮮日刊新聞社説)

「『勝者の裁き』か『文明の裁き』かという二元論で、万人の納得のいく解釈はできない。それを単純化して白黒をはっきりさせようというところに、実は大きな落とし穴がある」と喚き散らしてたくせに、己らは「『原発』か『自然エネルギー』かという二元論」で「単純化して白黒をはっきりさせよう」としてるんだね。

結局、(0)には国民の生活を守るという意識は欠片も無い。
上で述べたとおり、これに関しては「1か0か」しかないのだから、(0)は排斥されて然るべきだな。
じゃあ、(1)はどうか?
原発を続けるべきと主張するにしても、老朽原子炉の廃炉には反対しないよね。
ところが、12月1日の投稿で指摘したとおり、温暖化対策は老朽原子炉の廃炉を阻害し、日本国民の生活を脅かしてるんだね。
だから、(1)も排除されるべきだな。

残るは(2)と(3)だけ。
そして、これに関しては、確かに「『1か0か』の議論は『あぶない』」
なぜなら、(0)の連中のように、口先で「脱原発」と言うだけでは、「脱原発」は決して実現しないから。
廃炉には原子力の技術が必要なんだね。
ところが、原子力はやめますと言ってしまえば、将来性の無い技術を学ぼうとする学生はいないから、原子力技術者がいなくなる。
原子炉は50基もあるから、技術者がいなくなれば、廃炉は滞ってしまう。
「原発をすっぱりやめたら、おそらく原子力関係の学部・学科も消滅し、原子核技術は継承されなくなりますね」という指摘は痛いところを突いてる。

これに関しては、三橋貴明がさらに明確に書いてるな。


原発技術が我が国で衰退していくと、使用済み核燃料の処分や利用期間を終了した原発の廃炉が不可能になっていきます。すなわち、脱原発も実現しません(わたくしはエネルギー安全保障上の観点から、脱原発には賛成していませんが)。
「真摯な姿勢」で脱原発を実現したいならば、原発を再稼働し、技術者を育成し、技術投資を行い、使用済み核燃料の再処理、地層処分、廃炉などの「供給能力」を身に着けていかなければなりません。そんなことは、当たり前の話だと思うのですが、この手の技術問題を無視して、「とにかく、原発を動かすな! 脱原発だ!」などとやるのは、無責任の上、ナイーブです。日本語で書けば「幼稚」です。
この手の幼稚な論調が蔓延してしまうのは、情報の受け手(国民)サイドの問題よりも、送り手(マスコミなど)の問題の方が多いと思います。情報の送り手に問題がある結果、我が国では「真摯な姿勢の議論」を妨害する空気が蔓延してしまったのです。


(「マスコミが絶対に伝えない 「原発ゼロ」の真実」より)

断固として(2)を主張するにしても、原発を無くすためには、原子力の研究を続けなくてはならず、そのためには原発を廃止できない、というジレンマに陥ってしまうんだね。
本当に悩ましい。
これが原発の恐ろしいところだな。
一旦手を染めたら、抜け出すのが難しい。
ヤクザの世界と同じ。
けど、三橋貴明のように、だから原発続けるでしょ、と言うのなら、やはり「1か0か」になってしまう。
それは「あぶない」

そもそも、原子力に手をつけたのが間違いだ。
けど、今さらそんなこと言っても始まらない。
本当に、本当に、悩ましい。
私めのようなバカには解決策が思い浮かばない。
お手上げだ。
だからこそ、国民の知恵を結集しなければならないのに、(0)の連中がそれを阻止してるんだよ。
11月19日の投稿で 紹介したとおり、「左翼」は「来たる世代へ押しつける負の遺産についてこんなふうに言っている。『私たちはこう言い聞かせて良心をなだめるのだ。子孫は何 か(良い解決方法)を思いつくに違いない、と』」と言い立てて、温暖化対策と消費税増税を正当化しようと図ったけど、それなら、自然エネルギーが普及しても原発が消えてなくなるわけじゃないのに、原発か自然エネルギーかと喚いてる(0)は「子孫は何か(良い解決方法)を思いつくに違いない、と」思っているわけだから、(0)こそ「来たる世代へ押しつけ」ようとしていることになる。温暖化対策のデタラメも脱原発のデタラメも明らかだろ。)

(0)が幅を利かせている限り、にっちもさっちもいかない。
先ずは、(0)を葬り去らねばならない。
この「1か0か」は完全に正しい。
だからこそ、こんなブログ書いてるんだね。

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