春本番の邪悪

グリーグ「抒情小曲集 第3巻」より「春に」

今日今晩は。
「国際環境NGO(嘘)RealCrazyClimate」の会員某で~~~す。

前回の投稿の補足を。
前回の投稿で採り上げた邪説は、朝鮮日刊新聞という一新聞社の主張ではなく、大穢健三郎一派らの「脱原発派」の思想そのものであり、昨年9月2日の投稿で指摘したとおり、安保法制反対デモの連中も「脱原発派」


再稼働止める 代々木で大規模集会
2016年3月27日 朝刊
東京電力福島第一原発事故から五年が経過した中、原発再稼働ストップなどを呼び掛ける大規模集会が二十六日、東京都渋谷区の代々木公園で開かれた。主催者発表で約三万五千人が集まり、参加者らは「原発のない未来へ」「つながろう福島」などと訴えた紙を掲げ、脱原発への思いを新たにした。
作家の沢地久枝さんが登壇し、原発輸出推進や安全保障関連法施行など安倍政権の政策に触れ、「私たちはなめられている」「それが日本人の意思であるように言う政治家らを、このままにしておいていいとは思わない」と憤った。東電元幹部らの刑事責任を追及している福島原発告訴団副団長の佐藤和良さんも「福島を切り捨てる政権の原子力推進政策を許すわけにはいかない」と怒りをぶつけた。
生後十一カ月の長女を連れて参加した横浜市の主婦戸原貴子さん(39)は「五年前の事故で原発や放射能の怖さを知った。事故処理も終わっていない中で原発を再稼働することには反対」ときっぱり。祖母が広島で被爆したという東京都練馬区の元教師西田昭司さん(69)も「核兵器だけでなく、原発も絶対やめなければならない」と訴えた。
参加者らは集会後、代々木公園周辺をデモ行進し、脱原発への理解を呼び掛けた。


(TOKYO Web)


「脱原発」求め都内で集会 四つの市民団体が呼びかけ
2016年3月26日19時48分
東京電力福島第一原発の事故から5年になるなか、脱原発を求める「原発のない未来へ! 全国大集会」が26日、東京・代々木公園で開かれ、渋谷駅周辺をデモ行進した。主催者発表では、約3万5千人が参加した。
脱原発への政策転換を求める「さようなら原発1000万人アクション」など、四つの市民団体が呼びかけた。ステージでは、作家の澤地久枝さんが「5年たっても福島の人たちはふるさとを追われたまま。一人でも多く声を上げ、政権に示そう」と訴えた。
集会には学生団体「SEALDs(シールズ)」のメンバーも参加。芝田万奈さんは「廃炉には莫大(ばくだい)な時間とお金がかかる。判断力、想像力のない人たちに未来は託せない」と述べた。1歳の長男とデモ行進に参加した東京都清瀬市の主婦稲村友美さん(33)は「たった5年で原発回帰が始まっているのは悲しい。子どものためにも原発ゼロを訴えていかなければならない」と話した。

2016040801
反原発を訴えるデモで、「原発のない未来へ」などと書かれた横断幕を掲げながら街中を歩く人たち=26日午後3時11分、東京都渋谷区、関田航撮影


(朝日新聞デジタル)

「エネルギーはジモトから」と書いたプラカードを持ってるな。
2月10日の投稿で採り上げた記事が「地元の電気を使える日が楽しみだ」と囃し立てていたとおり、もちろん、それは再生エネ。
で、例のシースルーが参加!

だから、前回の投稿で採り上げた邪説の「市場をつくる自覚こそ」「一人ひとりが電力市場を形づくる参画者であることを自覚したい」は安保法制反対デモ=脱原発派の理念でもある。
言うまでもないけど、一人ひとりが電力の消費者であるのは当たり前だから、「一人ひとりが電力市場を形づくる参画者であることを自覚したい」は「一人ひとりが電力の消費者であることを自覚したい」という意味じゃない。
電力自由化しなくても、「電気の使い方と選び方を家庭で考える」ことはできるにもかかわらず、「電気の使い方と選び方を家庭で考える機会としたい」と言い張ったのは、「市場をつくる自覚こそ」の「市場をつくる」が電力自由化に他ならず、であるから、「一人ひとりが電力市場を形づくる参画者であることを自覚したい」は「一人ひとりが電力自由化の参画者であることを自覚したい」に他ならない。
もちろん、それは民主主義に関わる問題。
2011年9月11日の投稿で採り上げた2011年8月15日の朝鮮日刊新聞邪説は「民主主義を真っ当なものに鍛え直すしかない」と喚いてたけど、安保法制反対デモ=脱原発派は「民主主義を真っ当なものに鍛え直す」ために「一人ひとりが電力市場を形づくる参画者であることを自覚したい」と言うんだね。
2011年10月3日の投稿で採り上げた邪説が「『私らには民主主義の集会や市民のデモしかない。しっかりやりましょう』。呼びかけ人の一人、作家・大江健三郎さんの言葉が象徴的だ。『脱原発』は、私たちの民主主義に新たな一ページを刻む動きに見える」と囃し立ててたけど、2012年9月10日の投稿で紹介したとおり、大穢健三郎は電力自由化の徒。
電力自由化で「民主主義を真っ当なものに鍛え直すしかない」と言うんだよ。
昨年9月29日の投稿で紹介したとおり、シースルーが「民主主義ってなんだ?」「これだ!」と喚いてたけど、「一人ひとりが電力市場を形づくる参画者であることを自覚したい」が安保法制反対デモ=脱原発派の民主主義観。
けど、官邸前や国会前でデモしているのは首都圏の住人であり、首都圏の住人は自分達が福島に原発を押しつけたという「自覚こそ」必要であり、だから、東電に電気代を支払い続けることで、「一人ひとりが原発事故対策の責務を負うことを自覚したい」にもかかわらず、「市場をつくる自覚こそ」「一人ひとりが電力市場を形づくる参画者であることを自覚したい」と言い張るのは市場原理主義以外の何物でも無い。
市場原理主義だからこそ、電力自由化の結果、EUでは独占が進んだ。

「民主主義ってなんだ?」
「市場原理主義、これだ!」
それが安保法制反対デモ=脱原発派の民主主義観。

昨年7月17日の投稿で採り上げた邪説は「それが安倍政権の民主主義だというなら、決してくみすることはできない」と泣き喚いてたけど、電力自由化を決めたのは安倍政権。
にもかかわらず、「電気の使い方と選び方を家庭で考える機会としたい」と言い張り、その挙句に、「自由化を機に、一人ひとりが電力市場を形づくる参画者であることを自覚したい」と喚くのは、「自由化を機に、一人ひとりが安倍政権を形づくる参画者であることを自覚したい」と言う以外の何物でもねえ。

「民主主義ってなんだ?」
「安倍政権、これだ!」
それが安保法制反対デモ=脱原発派の民主主義観。

安倍政権は市場原理主義だから、「民主主義ってなんだ?」「市場原理主義、これだ!」が「安倍政権、これだ!」になるのは理の当然。

って言うと、安保法制反対デモ=脱原発派は、私達が主張したから電力自由化が実現したんですぅぅぅ~、安倍政権は私達の声に押し切られただけですぅぅぅ~、泣き喚くだろうけど、それなら、安倍は安保法案も撤回したはず。
2013年2月27日の投稿で紹介したとおり、電力自由化はアメ公の対日構造改革要望書の一環であり、安保法制も電力自由化も対米従属政策の一環であり、安倍は、安保法制反対デモ=脱原発派が電力自由化を喚き立てたのをこれ幸いに、電力自由化を推し進めたんだよ。
安倍がテメエらに押し切られたのではなく、テメエらは安倍を御輿に担いで電力自由化を推進したんだ、つ~の!
(もちろん、電力自由化を推し進めたから、デモの目的を一定は達成したわけだけど、前回の投稿で採り上げた邪説の「再エネ普及を促し、電気料金を抑えるためには、誰もが公平に接続できる送配電網が不可欠だからだ。大手電力の間には、発送電分離への抵抗感がなお強い。既得権が温存されないよう、新設された規制機関だけでなく、消費者もしっかり監視し続ける必要がある」を実行するためにデモを続けているんだね。原発反対はそのための口実にすぎない。)

けど、その事実に目をつぶったとしても、電力自由化に関して国民的議論は無かった。
実際、「電気の使い方と選び方を家庭で考える機会としたい」との言い草は、「電気の使い方と選び方を家庭で考え」た結果としての電力自由化ではないことを、大多数の国民を置き去りにして、安倍と官僚と伊藤元重らの御用学者と安保法制反対デモ=脱原発派だけで電力自由化を推し進めたことを、露呈してるんだね。
昨年7月19日の投稿で採り上げた邪説は「『勝手に決めるな』『国民なめるな』。世代や党派を超えた重層的な抗議のコールが連日、国会周辺の空気を震わせている。『これが民主主義か』という疑問。『主権者は私たちだ』という怒り」と喚き立ててたけど、己らだけで「勝手に決め」ながら、「国民をなめる」かのごとくに「自由化を機に、一人ひとりが電力市場を形づくる参画者であることを自覚したい」との言い草には「『これが民主主義か』という疑問。『主権者は私たちだ』という怒り」を抑え切れんな。

「民主主義ってなんだ?」
「勝手に決める、これだ!」
「民主主義ってなんだ?」
「国民なめる、これだ!」
それが安保法制反対デモ=脱原発派の民主主義観。

って言うと、安保法制反対デモ=脱原発派は、野党も賛成して国会で決めたんですぅぅぅ~、と泣き喚くだろうけど、昨年8月13日の投稿で採り上げた邪説では「こうした疑問や問題、さらには民意を置き去りにした見切り発車の再稼働は認められない」と言ってたんだね。
上で指摘したとおり、電力自由化は欧米で独占と外資による社会資本強奪を招いたのであって、「こうした疑問や問題、さらには民意を置き去りにした見切り発車の電力自由化は認められない」
昨年7月17日の投稿で採り上げた邪説は「選挙で多数を得たからと言って、『熟議なき多数決』によって、平和主義をはじめとする憲法の理念、民主主義の価値をひっくり返す。それが安倍政権の民主主義だというなら、決してくみすることはできない」と喚いてたけど、「電気の使い方と選び方を家庭で考える機会としたい」という台詞は、電力自由化が「民意を置き去りにした見切り発車」「熟議なき多数決」であったことを、ハッキリと示してる。
にもかかわらず、「なにより、2020年には大手電力がもつ送配電網の分離・中立化(発送電分離)が予定されている。その履行を着実にしなければならない」と言い張るのは「民主主義の価値をひっくり返す。それが安保法制反対デモ=脱原発派の民主主義だというなら、決してくみすることはできない」

「民主主義ってなんだ?」
「民意を置き去りにした見切り発車、これだ!」
「民主主義ってなんだ?」
「熟議なき多数決、これだ!」
それが安保法制反対デモ=脱原発派の民主主義観。

って言うと、上で紹介したとおり、大穢健三郎が「私らには民主主義の集会や市民のデモしかない」と言い立てていたこと、また、2012年7月9日の投稿で採り上げた邪説が「多くの人々が自分たちの意見が行き場を失わないよう、街頭に集まり、声をあげている。ルールを守れば、デモも集会も民主主義への大事な参加方式だ」だの、2012年7月30日の投稿で採り上げた邪説が「自分たちの声が政治に届かない。そんないらだちが、人々を直接民主主義的な行動に駆り立てているのではないか」だのと囃し立ていたことから分かるとおり、安保法制反対デモ=脱原発派は、デモが民主主義ですぅぅぅ~、デモを傍観している人は民主主義を理解していないんですぅぅぅ~、民主主義を理解していない人が「熟議なき多数決」と批判する資格はありまシェ~~~ン、シースルー・カム・バ~~~ック、と泣き喚くだろうけど、シースルーの存在自体が「熟議なき」を示してるんだよ。
前回の投稿でも指摘したとおり、「脱原発=再生エネ+電力自由化」は福島原発事故対策を阻害し、且つ、原発廃炉を阻害する。
上記の朝鮮日刊新聞記事で、シースルーの芝田万奈とやらが「廃炉には莫大な時間とお金がかかる。判断力、想像力のない人たちに未来は託せない」と泣き喚いてるけど、「廃炉には莫大な時間とお金がかかる」からこそ、「脱原発=再生エネ+電力自由化」は許し難いんだよ。
「判断力、想像力のない人たち」はテメエらだ、つ~の!
「判断力、想像力のない」テメエらの存在自体が「熟議なき」を示してるんだ、つ~の!

しかも、デモに参加していない市民の方が圧倒的に多い。
昨年7月28日の投稿で採り上げた邪説は「民主的なプロセスを軽視すれば、民主的に選ばれたはずの自らの基盤も揺らぐ。できるだけ多くの意見を聴き、納得をえたうえで物事を進めることは、一見遠回りなようだが、政権の正当性を高め、足腰を強くする。このことに安倍政権が思いを致すことができるか」と喚いてたけど、国会はデモに参加していない市民から「民主的に選ばれた」
「熟議なき多数決」と批判する資格は無いんですぅぅぅ~、と泣き喚いて、「民主的なプロセスを軽視すれば、民主的に選ばれたはずの国会の基盤も揺らぐ」
だから、「2020年には大手電力がもつ送配電網の分離・中立化(発送電分離)が予定されている」と言い立てても「正当性」は全く無い。
「このことに安保法制反対デモ=脱原発派が思いを致すことができるか」?
もちろん、できないし、する気もない。
前回の投稿で採り上げた邪説が「その履行を着実にしなければならない」と喚き立てたのはその証。

2012年8月24日の投稿で採り上げた2012年8月23日の朝鮮日刊新聞社説は「ものごとを政治家と既得権を持つ組織の代表や一部の専門家で決め、ふつうの市民はかかわりにくいのが、従来の『ムラ社会』型の意思決定の仕組みだ」と喚いてたけど、「ふつうの市民」はデモに参加していない。
「ふつうの市民」を無視して、「多くの人々が自分たちの意見が行き場を失わないよう、街頭に集まり、声をあげている」だの、「そんないらだちが、人々を直接民主主義的な行動に駆り立てているのではないか」だのと、デモ参加者のみが民主主義の具現者であるかのごとくに言い立てて、「ふつうの市民がかかわりにくいのは、従来の『ムラ社会』型の意思決定の仕組みと同じだ」

「民主主義ってなんだ?」
「『ムラ社会』型の意思決定の仕組み、これだ!」
それが安保法制反対デモ=脱原発派の民主主義観。

って言うと、安保法制反対デモ=脱原発派は、いやですぅぅぅ~、再生エネなんですぅぅぅ~、電力自由化なんですぅぅぅ~、と泣き喚くだろうけど。
昨年7月28日の投稿で採り上げた邪説は「政権と決め方―基盤崩す『結論ありき』」と言い立て、「仏つくって魂入れず。安倍政権下での物事の決まり方を見ていると、見てくれは立派だが魂の入っていないうつろな仏が、ごろごろと転がっているような印象を受ける」と喚いてたけど、「なにより、2020年には大手電力がもつ送配電網の分離・中立化(発送電分離)が予定されている。その履行を着実にしなければならない。再エネ普及を促し、電気料金を抑えるためには、誰もが公平に接続できる送配電網が不可欠だからだ」は正に「結論ありき」
「安保法制反対デモ=脱原発派での物事の決まり方を見ていると、見てくれも貧相で魂の入っていないうつろな仏が、ごろごろと転がっているような印象を受ける」

「民主主義ってなんだ?」
「結論ありき、これだ!」
それが安保法制反対デモ=脱原発派の民主主義観。

昨年7月19日の投稿で採り上げた邪説は「ものごとを多元的に検討することが企図されている。様々な価値観や異なる意見のせめぎ合いから導かれた結論の方が、間違いが少ないからだ。ところが安倍政権下、まさにその多元性が押しつぶされそうになっている」と泣き喚いてたけど、2013年7月6日の投稿で採り上げた2013年6月27日の朝鮮日刊新聞邪説は「そんな参院ならば、もういらない」と言い放った。
それは「基盤崩す『結論ありき』」を、「熟議なき多数決」を示して余りある。
実際は、少なからぬ自民党の議員が電力自由化に批判的だった。
つまり、自民党は「ものごとを多元的に検討」してた。
ところが、先にも指摘したとおり、安保法制反対デモ=脱原発派と野党が安倍を担いで「多元性を押しつぶ」した。
2013年3月21日の投稿で採り上げた邪説が「『骨抜き』『既得権保護』の汚名を返上し、新しいエネルギー社会の構築に力を注ぐ。自民党にとっても、またとない機会ではないか」と喚いたのは、そして、「そんな参院ならば、もういらない」と言い放ったのは、その事実を示して余りある。
前回の投稿で採り上げた邪説も「既得権が温存されないよう、新設された規制機関だけでなく、消費者もしっかり監視し続ける必要がある」と泣き喚いてたけど、安保法制反対デモ=脱原発派は、己らによって「多元性が押しつぶされ」ているという事実を覆い隠すために、「既得権」という言葉を濫用して市民を欺こうと図るんだね。

「民主主義ってなんだ?」
「多元性を押しつぶす、これだ!」
それが安保法制反対デモ=脱原発派の民主主義観。

昨年9月2日の投稿で採り上げた「天声人語」は「奥田さんは繰り返し語った。自分たちは『一人ひとりの個人』として考え、声を上げている――。どこかの政治団体に属するでもなく、誰かに動員されるでもない。一人の主権者として当たり前のことをしているのだという言葉がすがすがしい」と囃し立ててたけど、「電気の使い方と選び方を家庭で考え」て、再生エネに毎月600円も負担したくないと言うのは、「『一人ひとりの個人』として考え、声を上げている」
「電気の使い方と選び方を家庭で考え」て、電力自由化を批判するのは、「『一人ひとりの個人』として考え、声を上げている」
「一人の主権者として当たり前のことをしているのだ」
「自由化を機に、一人ひとりが電力市場を形づくる参画者であることを自覚したい」は「誰かに動員される」以外の何物でもねえ!

「民主主義ってなんだ?」
「誰かに動員される、これだ!」
それが安保法制反対デモ=脱原発派の民主主義観。

先に指摘したとおり、安保法制反対デモ=脱原発派はデモこそが民主主義であるかのごとくに喚き立ててるけど、2011年10月3日の投稿2014年6月28日の投稿でも指摘したとおり、原発を止めたいという一心だけで大穢健三郎らのデモに参加しても、大穢健三郎らの「脱原発=再生エネ+電力自由化」に与することになるんだね。
多元性が押し潰されてしまうんだよ。
大穢健三郎に「動員され」てしまうんだよ。
「自由化を機に、一人ひとりが電力市場を形づくる参画者であることを自覚したい」は正にそれを意図しているんだね。
昨年7月17日の投稿で採り上げた邪説は「戦後日本が70年かけて積み上げてきた民主主義の価値に対する、重大な挑戦ではないか」と泣き喚いてたけど、「自由化を機に、一人ひとりが電力市場を形づくる参画者であることを自覚したい」との言い草は「戦後日本が70年かけて積み上げてきた民主主義の価値に対する、重大な挑戦ではないか」!
上記の東京新聞記事で、沢地久枝とかいうババアが「それが日本人の意思であるように言う政治家らを、このままにしておいていいとは思わない」と泣き喚いてたけど、「それ(=再生エネ+電力自由化)が日本人の意思であるように言う大穢健三郎や沢地久枝やシースルーの芝田万奈らを、このままにしておいていいとは思わない」

って言うと、安保法制反対デモ=脱原発派は、街頭デモで声を上げるのが本当の市民の声なんですぅぅぅ~、ネット上の戯言なんか無視ですぅぅぅ~、と泣き喚くだろうけど、そのくせ、3月14日の投稿で採り上げた「天声人語」に見えるとおり、「保育園落ちた、日本死ね」という暴言には飛びつく。
「保育園落ちた、悲しい」と書いてたら、飛びつかなかった。
「日本死ね」と書いてたから、飛びついた。
「日本死ね」に悦び勇んだ。
それは理の当然。
先にも指摘したとおり、「脱原発=再生エネ+電力自由化」は福島原発事故対策を阻害し、且つ、原発廃炉を阻害し、その裏で、外資が我国の社会資本を強奪するけど、それは「日本死ね」に他ならない。

「民主主義ってなんだ?」
「日本死ね、これだ!」
それが安保法制反対デモ=脱原発派の民主主義観。

バカウヨは安保法制反対デモ=脱原発派を、平和ボケだの、お花畑だのと批判してるけど、そんな幼稚なこと言ってるからダメなんだ!
昨年9月2日の投稿で紹介したとおり、山口組チンピラ二郎(もしかしたら、今は神戸山口組?)は「安倍は人間じゃない。たたき斬ってやる」と喚いたけど、電力自由化を深く考察し、「民主主義」という名の日本刀を研ぎ澄まして、山口組チンピラ二郎や大穢健三郎やシースルーらの素っ首をたたき落とさねばならんのだ!

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