We are the 死刑 Ladies

レハール「メリー・ウィドウ」より「Maxim’s grisettes (We’re the Ladies of the Chorus)」

今日今晩は。
「国際環境NGO(嘘)RealCrazyClimate」の会員某で~~~す。

4月8日の投稿で糾弾したにもかかわらず、安保法制反対デモの外道どもがこんなこと喚いてやがる。


作家ら有志、川内原発の即時停止を要請 相次ぐ地震受け
2016年4月16日21時25分
熊本県を中心に地震が相次いでいることを受け、作家やジャーナリストらが参加する「川内原発の即時停止を求める有志の会」が16日、九州電力に鹿児島県の川内原発の即時停止を要請した。
要請したのは、作家の落合恵子さん、澤地久枝さん、広瀬隆さんと、ジャーナリストの鎌田慧さん、フォトジャーナリストの広河隆一さん、学生団体「SEALDs(シールズ)」メンバーの大学生、山田和花(のどか)さん。
地震後も稼働している川内原発について、「異常があってからでは遅いということは、これまでの福島第一原発の事故の経験から、誰の目にも明らか」とし、すぐに停止するよう求めている。要請文書はファクスで九州電力に送付したという。(沼田千賀子)


(朝日新聞デジタル)

もちろん、私めも川内原発は止めるべきと思ってるけど、コヤツらとは全然違う。
原発を止めて電気が足りなくなるのなら、原発を止めろとはよう言わん。
電気が足りないと病人・負傷者の治療もできない。
電気が足りないと人の生死に関わる。
電気が足りないと工場の生産も止まり、労働者は解雇されかねない。
そうなると、生活の再建もままならない。
電気が足りないと復興もできない。

けど、2011年4月26日の投稿8月30日の投稿2012年1月5日の投稿7月11日の投稿7月25日の投稿9月4日の投稿、そして、2013年3月29日の投稿で紹介したとおり、原発が無くても電力は足りてる。
原発が無くても電力が足りているということは、再生エネが無くても電力は足りているということ。
にもかかわらず、昨年7月6日の投稿で採り上げた「教えて!電源構成」の第3回に見えるとおり、再生エネのために国民は1兆8千億円も支払ってる。
2014年12月1日の投稿で紹介したとおり、原子炉一基の廃炉には210億円必要。
46基の廃炉費用は〆めて1兆円。
再生エネ1年分の費用で全原発を廃炉して、まだ、お釣りが来る。
もちろん、全原子炉を一気に廃炉することは不可能。
一基、一基、廃炉していかねばならない。
しかも、一基の廃炉に20年以上はかかる。
だから、廃炉には1兆8千億円のうちの100億円だけ回せば十分。
残りは、福島原発事故対策、東北の震災の復興と熊本の震災の復興に回すことができる。
2014年6月23日の投稿10月22日の投稿11月25日の投稿昨年8月26日の投稿、そして、9月6日の投稿で紹介したとおり、九州では太陽光発電が蔓延してるけど、電気は足りているにもかかわらず、再生エネに負担するのは原発廃炉を阻害し、熊本の復興を阻害する以外の何物でもねえ!

ところが、安保法制反対デモの脱原発は、イコール、再生エネ+電力自由化。
「異常があってからでは遅いということは、これまでの福島第一原発の事故の経験から、誰の目にも明らか」などと嘯いてるけど、実のところ、原発に対する意識は欠片も無い。
またしても、震災に乗じて再生エネを推し進めようとしているだけ。
熊本をさらに苦しめようとしているだけ。
前回の投稿で指摘したとおり、「日本死ね」は「熊本死ね」に他ならないけど、落合恵子、澤地久枝、山田和花は「熊本死ね」と叫んでるんだよ。
人殺し女は死刑にしろ!

前回の投稿で紹介したとおり、頭狂大学の阿呆が「保育園落ちた日本死ね」を持て囃してたけど、その中で「3月27日付朝刊コラム『政治断簡』で政治部の高橋純子記者が『おなかの底から発せられた主体的な言葉は、世界を切りひらく力を、もっている』と書くように」と書いてたのは、この記事だ。


(政治断簡)スプリング・ハズ・カム 政治部次長・高橋純子
2016年3月27日05時00分
全国各地から桜の便りが届いていますが、みなさまいかがお過ごしですか。こんにちは。「チリ紙1枚の価値もない」記事を書かせたら右に出るものなし、週刊新潮にそう太鼓判を押してもらった気がして、うれしはずかし島田も揺れる政治部次長です。
季節がめぐり、自然と足取りも軽くなる今日このごろであるが、ひとつ、ずっと、引っかかっていることがある。
あの家の窓は、どうして閉まったままなのだろう。
通勤時に通りかかる、南西角の一軒家。南隣にくっつくように立っていた家屋が取り壊され、駐車場になった。日当たりも視界も各段に良くなったはずなのに、いつもカーテンがひかれている。
勝手な想像をめぐらせる。たぶんその家では、もはや南の窓は「ない」ことになっているのだろう。開けたところで、どうせ隣家の外壁だから。いつしかカーテンの開け閉めさえ忘れられ、もしかしたら家具が置かれてふさがれているのかもしれない。
もったいないというか、寂しいというか。窓を開ければ、これまでとは違う景色が見えるのに。うららかな日ざしがそそぎ、やわらかな風が吹き込んでくるのに。

前回書いた「だまってトイレをつまらせろ」に多くの批判と激励をいただいたが、どうにもこうにもいただけなかったのが「死刑にしろ」だ。
どんなに気に食わなかったにせよ、刑の執行というかたちで国家を頼むのは安易に過ぎる。お百度踏むとかさ、わら人形作るとかさ、なんかないすか。昨今、わら人形はインターネットで即買いできる。しかしそんなにお手軽に済ませては効力も低かろう。良質なわらを求めて地方に足を運ぶくらいのことは、ぜひやってほしいと思う。
訪ねた農家の縁側で、お茶を一杯よばれるかもしれない。頬をなでる風にいい心持ちになるかもしれない。飛んできたアブをわらしべで結んだら、ミカンと交換することになり……「わらしべ長者」への道がひらける可能性もゼロとは言いきれない。
ひとは変わる。世界は変わる。その可能性は無限だ。
だけど、「死刑にしろ」と何百回電話をかけたところで、あなたも、わたしも、変われやしないじゃないか。

反日。国賊。売国奴。
いつからか、国によりかかって「異質」な他者を排撃する言葉が世にあふれるようになった。批判のためというよりは、排除のために発せられる言葉。国家を背景にすると、ひとはどうして声が大きくなるのだろう。一方で、匿名ブログにひっそり書かれたはずの「保育園落ちた日本死ね!!!」が、言葉遣いが汚い、下品だなどと批判されつつ、みるみる共感の輪を広げたのはなぜだろう。
なにものにもよりかからず、おなかの底から発せられた主体的な言葉は、世界を切りひらく力を、もっている。
スプリング・ハズ・カム。
窓を開けろ。歩け歩け自分の足で。ぼくらはみんな生きている。


(朝日新聞デジタル)

「前回書いた『だまってトイレをつまらせろ』に多くの批判と激励をいただいたが、どうにもこうにもいただけなかったのが『死刑にしろ』だ」と泣き喚いてるけど、朝鮮日刊新聞本社に「死刑にしろ」と電話する人間がいるんだろうか?
「死刑にしろ」と電子メールを送る人間がいるんだろうか?
このスベタの狂言じゃねえか?
それとも、2月7日の投稿で「早く死刑にしろ!」と書いたのを指しているのかな?
そういえば、あの毒カレー女も「高橋」で、このスベタも「高橋」

上記の「前回書いた『だまってトイレをつまらせろ』」というのは、この記事だ。


(政治断簡)だまってトイレをつまらせろ 政治部次長・高橋純子
2016年2月28日05時00分
だまってトイレをつまらせろ
このところ、なにかにつけてこの言葉が脳内にこだまし、困っている。新進気鋭の政治学者、栗原康さんが著した「はたらかないで、たらふく食べたい」という魅惑的なタイトルの本に教えられた。
ある工場のトイレが水洗化され、経営者がケチってチリ紙を完備しないとする。労働者諸君、さあどうする。
(1)代表団を結成し、会社側と交渉する。
(2)闘争委員会を結成し、実力闘争をやる。
まあ、この二つは、普通に思いつくだろう。もっとも、労働者の連帯なるものが著しく衰えた現代にあっては、なんだよこの会社、信じらんねーなんてボヤきながらポケットティッシュを持参する派が大勢かもしれない。
ところが栗原さんによると、船本洲治という1960年代末から70年代初頭にかけて、山谷や釜ケ崎で名をはせた活動家は、第3の道を指し示したという。
(3)新聞紙等でお尻を拭いて、トイレをつまらせる。
チリ紙が置かれていないなら、硬かろうがなんだろうが、そのへんにあるもので拭くしかない。意図せずとも、トイレ、壊れる、自然に。修理費を払うか、チリ紙を置くか、あとは経営者が自分で選べばいいことだ――。
船本の思想のおおもとは、正直よくわからない。でも私は、「だまってトイレをつまらせろ」から、きらめくなにかを感受してしまった。
生かされるな、生きろ。
私たちは自由だ。

念のため断っておくが、別にトイレをつまらせることを奨励しているわけではない。お尻痛いし。掃除大変だし。
ただ、おのがお尻を何で拭こうがそもそも自由、チリ紙で拭いて欲しけりゃ置いときな、という精神のありようを手放したくはないと思う。
他者を従わせたいと欲望する人は、あなたのことが心配だ、あなたのためを思ってこそ、みたいな歌詞を「お前は無力だ」の旋律にのせて朗々と歌いあげる。うかうかしていると「さあご一緒に!」と笑顔で促される。古今東西、そのやり口に変わりはない。
気がつけば、ああ合唱って気持ちいいなあなんつって、声を合わせてしまっているアナタとワタシ。ある種の秩序は保たれる。だけども「生」は切り詰められる。

「ほかに選択肢はありませんよ――」
メディア論が専門の石田英敬・東大教授は2013年、安倍政権が発するメッセージはこれに尽きると話していた。そして翌年の解散・総選挙。安倍晋三首相は言った。
「この道しかない」
固有名詞は関係なく、為政者に「この道しかない」なんて言われるのはイヤだ。
近道、寄り道、けもの道、道なんてものは本来、自分の足で歩いているうちにおのずとできるものでしょう?
はい、もう一回。
だまってトイレをつまらせろ。ぼくらはみんな生きている。


(朝日新聞デジタル)

「為政者に『この道しかない』なんて言われるのはイヤだ」だと?

原発が無くても、再生エネが無くても電気は足りているにもかかわらず、2011年9月11日の投稿で採り上げた2011年7月13日の朝鮮日刊新聞邪説は「代替電源の希望の星は、風力や太陽光を始めとする自然エネルギーだ」と決めつけたんだね。
2011年9月29日の投稿で採り上げた2011年6月29日の朝鮮日刊新聞邪説では国民の頭越しに「太陽光や風力の普及を図ることに異論はないはずだ」と高言したんだね。
その結果、固定価格買い取り制度で全国民に強制的に買い取らせているんだよ。
コヤツらは「為政者と共に『この道しかない』」と喚き立ててきたんだよ。
その挙句に、2014年4月22日の投稿で採り上げた2015年4月10日の邪説は「日本は原発事故に学び、再エネへと切り替える必要性を痛感した」と言い放ったんだね。
「為政者と私達が作った窓を開けろ。為政者と私達が示す方向に歩け歩け自分の足で。ぼくらはみんな生かされている」と喚いたんだよ。

電力自由化も然り。
原発が無くても、再生エネが無くても電気は足りているにもかかわらず、2011年8月26日の投稿で採り上げた邪説は「今回の震災と原発事故で、1カ所に集中して巨大な発電所をつくるやり方や地域独占による閉鎖的な経営形態は、いざという時の安定供給にとって大きな阻害要因になることがはっきりした。むしろ、小規模でも多様な電源による発電事業者を消費地近くに多く分散配置した方が、結果的に安定供給に資するとの認識は、これまで以上に高まっている。かつては電気料金を下げる効果が期待された発送電分離が、いまや電力の安定確保のための具体策として、その意義が語られているのだ」だの、2012年1月5日の投稿で採り上げた邪説でも「競争的で公平な電力市場への整備は、震災を経てより重みを増している。脱原発による電力不足を補い、新たなビジネスを育てる基盤になるからだ」だのと喚き散らしたんだね。
そのように国民を騙して、電力自由化を推し進めたんだよ。
その時には、電力が足りていたことは分からなかった、電力会社が隠してたのが悪い、などという言い逃れが通用すると思うなよ。
4月6日の投稿で採り上げた「教えて!電力自由化」の第1回で尚も「競争的で公平な電力市場への整備は、震災を経てより重みを増している。脱原発による電力不足を補い、新たなビジネスを育てる基盤になるからだ」と喚いてたんだね。
コヤツらは「為政者と共に『この道しかない』」と喚き立ててきたんだよ。
その挙句に、2月7日の投稿で「死刑にしろ!」と指弾した毒カレー女が「みなさんにも大事にしていただきたいと思っている」と言い放ったんだね。
さらに、4月6日の投稿で採り上げた邪説でも「自由化を機に、一人ひとりが電力市場を形づくる参画者であることを自覚したい」と喚いたんだね。
己らが為政者と結託して決めた方向に「ひとは変わる。世界は変わる」と高言したんだよ。
「ああ電力自由化合唱って気持ちいいなあなんつって、声を合わせてしまっているアナタ高橋とワタシ高橋」
にもかかわらず、「道なんてものは本来、自分の足で歩いているうちにおのずとできるものでしょう?」などとほざいてやがる。
どこまで破廉恥で醜悪なメス犬なんだ!

原発が無くても、再生エネが無くても、電力自由化しなくても電力は足りているにもかかわらず、コヤツらが脱原発=再生エネ+電力自由化と決めつける拠り所は、言うまでもなく、人為的温暖化プロパガンダ。
前回の投稿でも紹介したとおり、コヤツらは「パリ協定後の世界と日本」と題するシンポジウムを開催した。
講演者にはIPCC第5次報告書政策策定者向け要約の執筆者・江守正多を招いたけど、昨年12月8日の投稿で紹介したとおり、その江守正多は「温暖化の科学への懐疑を主張される方々の多くにとって、科学への懐疑は言いたいことの本質なのだろうか。ディベートのためのレトリックや理論武装ではないのか。周囲で撤退が始まり、梯子を外され、肝心の武装も穴だらけであることに薄々気づきながら、最後まで立てこもって守り続けるほどの価値のある主張なのだろうか」と喚き散らしたんだね。
昨年12月15日の投稿で紹介したとおり、「懐疑論は不要であり、むしろ余計であると申し上げたい」と言い放ったんだね。
それは「批判のためというよりは、排除のために発せられる言葉」に他ならない。
その挙句に、3月18日の投稿で紹介したとおり、「社会のほとんどの人たちが問題に関心を持ち、科学的知見と倫理的規範を共有する必要は、必ずしも無い・・・問題に無関心な人が多くいたとしても、彼らは新しい常識にいつのまにか従うようになるだけだろう」と高言したんだよ。
「国家を背景にすると、ひとはどうして声が大きくなるのだろう」?
ところが、コヤツらはその「ひと」と結託して、「国によりかかって『異質』な他者を排撃」しようと図ったんだよ。
一方で「一方で、匿名ブログにひっそり書かれたはずの『保育園落ちた日本死ね!!!』が、言葉遣いが汚い、下品だなどと批判されつつ、みるみる共感の輪を広げたのはなぜだろう」と囃し立てているけど、それは「保育園落ちた日本死ね!!!」こそが、そして、それを「なにものにもよりかからず、おなかの底から発せられた主体的な言葉は、世界を切りひらく力を、もっている」と持て囃すことこそが「『異質』な他者を排撃する言葉が世にあふれるようになった」に他ならないことを露呈してるな。

「窓を開ければ、これまでとは違う景色が見えるのに」と言い立てるなら、先に指摘したとおり、再生エネ+電力自由化は原発廃炉を阻害し、熊本の復興を阻害するという「異論」にも目を開くべき。
そうすれば、つまり、「脱原発=再生エネ+電力自由化の窓を開ければ、これまでとは違う悲惨な熊本の景色が見えるのに。うららかな草千里に血の涙がそそぎ、血なまぐさい風が吹き込んでくるのに」、「国によりかかって『異質』な他者を排撃」した挙句、安倍こべに「うららかな日ざしがそそぎ、やわらかな風が吹き込んでくるのに」とほざくのは、コヤツらの目には「熊本死ね!!!」が「うららかな日ざしがそそぎ」と映り、「熊本死ね!!!」が「やわらかな風が吹き込んでくる」と感じるということ。
「反日。国賊。売国奴」!
だからこそ、「日本死ね!!!」を持て囃すんだよ。
落合恵子、澤地久枝、山田和花、そして、2匹の「高橋」を死刑にしろ!

「お百度踏むとかさ、わら人形作るとかさ、なんかないすか」だと?
図に乗るんじゃねえ!
テメエごとき鬼畜メス犬に、なぜ、わざわざ「お百度踏ま」にゃならんのだ。
鬼畜メス犬ごときに「わら人形作る」のは資源のムダだ。

絞首刑じゃ。
テメエは「だまって首をつまらせろ」!

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