IPCC信者が車に乗らない人に「ぼけ、土人が」と狂騒曲

バッハ「ブランデンブルグ協奏曲第4番」

今日今晩は。
「国際環境NGO(嘘)RealCrazyClimate」の会員某で~~~す。

10月17日の投稿でマーラーの第5番を採り上げたけど、ついでだから、他の曲にも言及しておくか。
第1番は我が家にスウィトナー・ドレスデンのLPがある。
今はLP再生装置が無いから聴けないし、CDも持ってないけど、第1番はこれが最高。
この曲は第1楽章が圧倒的に優れているけれど、第1楽章の森の響きはスウィトナー・ドレスデンを超えるものはない。
今後も絶対に出ないだろう。
これは1960年代初頭のドレスデンだからこそ、そして、スウィトナーだからこそ出せた響きであり、現在のドレスデンではもう出ないし、まして、現在の指揮者には全く不可能。
(昔は良かった、みたいな物言いはまるでジジイの言い草みたいだけど、録音が残っているのだから、耳で確かめられるのだから、否定しようがない。但し、CDでは特に弦楽器の音が金属的になるから、CDで聴いても、私めがLPで聴いた時と同じように聴こえることは保証できないけれど。)

第2番と第3番は本質的に低俗な曲だからバーンスタイン・NYPで十分だろ。
合唱つきの大曲が得意なカラヤンが手を出さなかったのは、その低俗さは救い難いからだろう。
第3番には、ブルーノ・ワルターがマーラーを避暑地に訪ねた際、当たりの景色に見いっていると、自分が作曲してしまったから見なくてよいと言った、という逸話が残っているくらいだから、ワルターには思い出深い曲のはずなのに、何故かしら録音していない。
結局は低俗と思っていたのか?
(大曲だから、年齢的に無理と判断したのかもしれないけど、壮年時に演奏したという記録があるのだろうか?)

第4番はレヴァイン・シカゴが私めのお気に入り。
初めて聴いた時は、シカゴの響きの故か、RCAの録音が悪いのか、無機的に感じて不満だったけど、レヴァインの楽天的な演奏とこの無機的な響きが相まって、非現実的な愉悦の世界に誘い込んでくれることに気づいた。
腹立たしかったり、いやな気分になったときは、これを聴いて現実逃避。
但し、レヴァインは、この曲に限らず、緩徐楽章(第4番では第3楽章)が遅すぎるのが欠点。
それなりに美しいのだけど、やや間延びして聴こえる。

第4番ではインバル・フランクフルトの演奏にも言及しておこう。
この演奏では第2楽章が、違う楽譜を演奏しているのかと思われるほどに、他の演奏と全く印象が異なる。
LPやCDには必ず「友ハイン(死神)は演奏する」という解説が書いてあるけど、そして、バーンスタインの演奏は如何にもそれっぽく、レヴァインもバーンスタインほどではないものの、それらしき旋律が聴こえるけれど、インバルでは「友ハイン(死神)は演奏する」とは聴こえない。
子どもがおもちゃ箱をひっくり返して、部屋中をおもちゃで散らかして遊びほうけている様な印象。
(但し、その中には少しグロテスクなおもちゃが混じっている。その部分が「友ハイン(死神)は演奏する」に相当するけれど、「死」は感じさせない。)
そして、遊びつかれた子どもが寝入ってしまい、夢の中でまた遊んでいるのが第3楽章。
第4楽章では、目覚めた子どもが母親に抱かれ、母子が幸福に浸っている、が、子どもには既に死の影が近づきつつある、という風に聴こえる。
(私めには歌詞の内容はどうでもいい。歌い方と歌手の声質が音楽を決める。)
つまり、インバルの演奏では第2楽章ではなく第4楽章で「友ハイン(死神)は演奏する」
これを聴くと、第5番の冒頭が葬送行進曲であることに納得する。

第4番ではアバド・ウィーンフィルのCDも持ってる。
我国ではすこぶる評価が高い。
こんなのが?
カラヤンのような大指揮者の真似して、表現を抑制することで逆に雄弁さを得ようと目論んでるけど、オーケストラの統率力が弱く、音楽を謡わせる能力にも欠けるから、緊張感無くだらだらと音楽が流れていくだけ。
カラヤンのブルックナー第7番の国内版CDを持ってるけど、その解説に「カラヤンのブルックナーはそれこそ技の限りを尽くした伝統工芸品の趣である」と記している。
これは或る意味で正しい。
指揮者は本質的に職人。
伝統工芸の職人が職人技を極めた作品は、そんじょそこらの画家や彫刻家の作品などよりも、遥かに高い芸術性を有する。
カラヤンの演奏は正にそれ。
カラヤンこそは職人として指揮者の道を究め、その結果として、高い芸術性を得た指揮者。
アバドらの世代以降の指揮者は、自分は芸術家だと勘違いしている。
だから、カラヤンの足元にも及ばない。
但し、ウィーンフィルの音が美しいのは確かで、真夏の午後にエアコンを効かせた部屋で第3楽章を聴くと、緊張感に欠けた美音が垂れ流れるから、垂れパンダ状態になって、お昼寝できる。
お昼寝BGM用のマーラーとしては珍重すべき演奏。
マーラーを垂れパンダに変えてしまったという意味で、これまたマーラーを超越したマーラーと言えなくもないけど。

第6番は手持ちの数枚の中ではレヴァイン・ロンドン響。
大げさでなんぼ、わざとらしくてなんぼ、みたいな曲だけど、騒々しくなく、物々しさがなく、明晰に、だからと言って、重箱の隅をつつくようなこともなく、しっかりと音にしているのがよろし。
まあ、個人的にはそんなに聴きたいと思う曲じゃないから、これで十分。
(残念ながら、第4番も第6番もカラヤン盤を持っていないけど、YouTube にアップロードされている第6番の終楽章を聴いたら、背中がぞくぞくした。もちろん、CDを買って聴かないと本当のところは分からないけど、私めの感性に合いそうだ。)

第7番は我が家にクレンペラーのLPがある。
今はLP再生装置が無いから聴けないし、CDも持ってないけど、唯一無二絶対の演奏。
これこそ、マーラーを超越したマーラー演奏。
一旦、その「巨大な優しさ」に気づいてしまうと、もう、他の演奏では物足りなくなる。
但し、「巨大さ」故に、表面上は無愛想極まりないから、何回も何回も繰り返し聴かないと「優しさ」に気づかない。
逆に言えば、どんなにCDを所有していようとも、この「巨大な優しさ」に気づいていない輩はトウシロにすぎない。

第8番はインバル・フランクフルト。
ファウストもまた「憧憬と幻滅との間にひきさかれたものの悲劇がうたわれている」けれど、マーラーと違って、高い芸術性を有している。
(だからこそ、多くの芸術に影響を与えた。他の芸術に影響を与えた文学のナンバー1は「ドン・キホーテ」だけど、「ファウスト」はそれに次ぐ存在だろう。)
インバルはマーラーにおける小市民的な「憧憬と幻滅との間にひきさかれたものの悲劇」を、ファウストに表現された「憧憬と幻滅との間にひきさかれたものの悲劇」に置き換えることに成功していると思う。
本来なら、ドイツ人が為すべきことだけど、独墺系の指揮者は演奏しない。
ワルターもクレンペラーも録音していない。
ドイツ人の代わりにそれを成し遂げたのがインバル。
この録音がドイツで高く評価された理由がよく分かる。

第9番はさすがに多士済々の名盤が揃っているけど、私めの僅かな手持ちの中では、カラヤン以外では先ずレヴァイン。
私めがレヴァインのマーラー選集を購入した目的はこの第9にあった。
初出時にセンセーションを巻き起こした演奏だから。
(その証拠に、吉田秀和の「LP300選」の付録のレコード表にも「この盤は出来上がりもすばらしいし、スコアを見ながら聴くともっとおもしろい。演奏に関する作曲者自身の注意と指示をこれほど忠実に守って音楽にしている例は少ない」と記している。またレコード会社も第9番が目玉商品であることは百も承知で、他の曲では第4番のCDの余白に第7番の第1楽章が、第6番の第4楽章と第3番の第1楽章がカップリングされているのに対し、第9番だけは第1楽章と第2楽章を1枚に、第3楽章と第4楽章を1枚に収めている。)
マーラーなんて見たことも聴いたこともない指揮者が、レコード会社から、君、君、この曲を録音してくれないかな、と言われ、はい、分かりました、と安請け合いし、それでいながら完璧に再現して見せた、というような演奏。
たった今、書き上げられたばかりの曲の初演をしているような新鮮さが際立つ。
もちろん、オーマンディ時代最後の、つまり、絶頂期のフィラデルフィアを使ったのがその成功の理由ではある。
ロンドンのオーケストラの技量なら、目いっぱいギリギリで演奏することになったから、そのような印象を与えることはできなかっただろう。
第1・第2楽章など、この程度ならどうってことないっす、てな感じで楽々と演奏してる。
ところが、その一方で、曲が進むにつれて、オーケストラがどんどん熱くなっていくのがハッキリと分かる。
先に指摘したとおり、レヴァインは緩徐楽章が遅すぎるのが欠点で、この第4楽章も演奏時間はなんと29分50秒!
遅すぎるぞ。
もちろん、クレンペラーの第7番も遅いけど、だからこそ「巨大な優しさ」が現れる。
って言うか、「巨大な優しさ」故の遅いテンポ。
レヴァインにクレンペラーの超絶さは無く、遅いテンポに必然性がない。
ところが、第4楽章ではオーケストラが曲にのめり込んでしまってる。
私めはCDをそんなに持っていないし、オーマンディ・フィラデルフィアのLPは、オイストラフ独奏のシベリウス・ヴァイオリン協奏曲(これは同曲最高の演奏の一つであり、余白に入っている「トゥオネラの白鳥」がまた絶品。その美しさにはカラヤンも及ばない)、そして、レスピーギのローマ三部作(これも屈指の名盤)だけで、CDもメンデルスゾーンの「最初のワルプルギスの夜」(これも名盤)とブラームスの交響曲全集(第2番が佳演、「大学祝典序曲」が爆演で、「ハイドンの主題による変奏曲」は同曲最高の演奏)だけだから、憶測だけど、フィラデルフィアがこれほどまでにのめり込んでいるのは例が無いんじゃないか?
その結果、遅いテンポがあまり気にならない。
しかも、レヴァイン自身は冷静さを保っているから、低俗にならない。

第9番に関しては、もう1枚、テンシュテット・ロンドンフィルの第1楽章が素晴らしい。
第5番のアダージェットと同じく、愛(いと)しさに満ち満ちた演奏。
曲自体はこちらの方が遥かに優れているから、演奏としても、こちらの方が断然優れている。
ロンドンフィルの響きも、アダージェットでは安っぽかったけど、こちらでは健闘している。
もちろん、マーラーの場合の「愛しさ」は自己愛にすぎないけれど、テンシュテットの演奏はそれを乗り越えて、聴き手への慈しみとして心に染みる。
(もちろん、クレンペラーに比べれば全く小さい。クレンペラーは我々に微笑すら投げかけないけれど、生きとし生けるものを「巨大な優しさ」で覆う。けど、聴き手の我々自身が小市民だから、テンシュテットの「小さな慈しみ」の方に「優しさ」を感じてしまうのも否定できない事実。)
残念ながら、その「慈しみ」が他の楽章にまで及んでいないから、全楽章の演奏としてはカラヤンやレヴァインに劣るけど、それはこの曲自体が第1楽章に比べて他の楽章は劣るという事実の裏返しであり、第1楽章だけでも聴くに値する。

「大地の歌」はバーンスタイン・ウィーンフィルのCDを持ってて、これで十分。
って言うか、フィッシャー・ディスカウで聴いてしまうと、女性の声ではもう満足できなくなる。
(但し、フィッシャー・ディスカウはこれ以前にもパウル・クレツキとEMIに録音していて、吉田秀和に依れば、そちらの方がさらに良いらしい。私めは聴いてないから、分からないが。)

左翼リベラルの鬼畜ども。
奸凶NPOの外道ども。
IPCCの阿呆ども。
俺様の高尚さを思い知ったか!
ハッ、ハッ、ハッ!

というわけで、本題に入って、これ。


スウェーデン閣僚、EUに化石燃料車の販売禁止求める姿勢示す
2016年10月23日 11:23 発信地:ストックホルム/スウェーデン
スウェーデンのイサベラ・ロウィン(Isabella Lovin)国際開発協力相は22日、ガソリンや軽油を燃料とする自動車を2030年から販売禁止とするよう、欧州連合(EU)に求める姿勢を表明した。
緑の党のロウィン氏は日刊紙アフトンブラデッド(Aftonbladet)に対し、ドイツ連邦参議院(上院)が先日採択した決議を歓迎する考えを示した。決議は、30年までに温室効果ガスを排出しない車への切り替えをEUに促す内容で、法的拘束力はない。
これについてロウィン氏は「実に興味深い提案だ。これを実現するには、EU全体が協調して(温室効果ガスを排出する)車の販売禁止を施行する必要がある」と語った。その上で、「環境問題を担当している閣僚としては、化石燃料で走る車を歴史のごみ箱に捨てる以外に方法はないように思う」と付け加えた。
スウェーデン政府は40年までに電力の全てを再生可能エネルギーで調達する目標を掲げている。


(AFP)

この「ドイツ連邦参議院(上院)が先日採択した決議」に関して、ドイツ在住の日本人がこのように論じてる。


脱原発に続いてガソリン車「廃絶」へ!? ドイツの政策は矛盾だらけ
いくらなんでも現実性が…
2016.10.14
シュピーゲル誌のスクープ
「2030年以降は、自家用のガソリン車とディーゼル車の新規登録は中止する」という方針を、ドイツの連邦参議院が超党派で表明したそうだ。既成の内燃機関への”死刑宣告”である。
ドイツは連邦共和国であり、各州の権限が大きい。その各州の代表で構成されているのが連邦参議院で、そもそもは、各州が自分たちの利益を主張するため、あるいは、州レベルで団結して連邦政府に対抗するための仕組みとなっている。
つまり、連邦参議院がガソリン車とディーゼル車の将来的な廃止を推し進めるなどということは、これまでの例から言えば、かなり突拍子も無いことだ。
この決定はすでに9月23日になされており、聞くところによれば、ドイツだけでなく、「EU全体でのガソリン車とディーゼル車の廃止」、そして「電気自動車の普及」が目標らしい。
いずれにしても、現在のEUでは、自国のことを自国で決めることが難しくなっており、連邦参議院はこの案を、EUの該当機関に提出したそうだ。それが書類の山に紛れてそのままになっていたのをシュピーゲル誌が掘り出し、10月9日、特ダネとして報道した。もちろん、ドイツは大騒ぎになった。
ただ、この過激な案は、参議院の全会一致で決まったわけではない。有力州であるバイエルン州、およびバーデン=ヴュルテンベルク州の州首相は、反対意見を表明している。
バーデン=ヴュルテンベルクは、現在、ドイツ史上唯一無二、緑の党の州首相を担ぐ州だが、メルセデスとポルシェの本社があり、自動車産業が突出している。いくら緑の党といえども、電気自動車への急激なシフト案に賛同するなどということはありえない。
コメントを求められた連邦の交通大臣も、「2030年という日時が非常に非現実的であり、馬鹿げている」と言い切った。
一方、面白いことに、フォルクスワーゲン社のふるさとで、これまで同社の成功とともに生きてきたニーダーザクセン州(SPD・社民党が州首相)は、今回、ガソリン車を葬るこの案に賛成したという。排気ガスをごまかす不正ソフト事件以来、多大な経済的被害を受けているため、かなりやけくそになっているのだろうか。
ただ、傾きかけているフォルクスワーゲン社が、電気自動車に切り替えてすばやく復活できるとも思えない。いや、そもそも、電気自動車の急速な発展の可能性自体が、今のところ、かなり不透明である。
ドイツの電気自動車はわずか2万5000台
現実性が欠けているのは、ドイツ政府も似たようなものだ。
実は2012年、ドイツ政府は、「2020年までに100万台の電気自動車を普及させる」という目標を打ち立てた。ところが、それが全然進まないため、2016年7月からは、電気自動車を買った人には4000ユーロ、プラグイン・ハイブリッド車には3000ユーロの現ナマが支給されることになった。「環境ボーナス」と呼ばれる補助金である。
この補助金を誰が支払うかというと、国と自動車のメーカーが折半する。といっても、すべてのメーカーが払うわけではなく、申し出た会社だけ。今のところ、メルセデス、フォルクスワーゲン、BMWの3社が参加しているという。
ただ、ドイツのメーカーは、もともと電気自動車分野はあまり強くない。これまでドイツで電気自動車が売れるとすれば、ほとんど日本車かフランス車だった。補助金でお客が増えるかどうか……。
補助金支給後2ヵ月が経ったところを見ると、ドイツ政府の意に反して、ドイツ車であれ、日本車であれ、やはり電気自動車の売り上げはあまり伸びていない。この2ヵ月間でドイツで新しく登録された電気自動車は、プラグイン・ハイブリッド車も合わせてたったの3027台。ほとんどの人は、補助金をもらっても、プラグイン・ハイブリッド車さえ買わないということである。
電気自動車は値段が高い。4000ユーロの補助が出ても、まだガソリン車よりも高い。また純粋な電気自動車は走行距離が短いことも難点だ。毎日何百キロも走る人はそうたくさんはいないが、しかし、ドイツ人は休日や休暇中に車で遠出をすることが多い。そんなとき、充電施設を探して右往左往するのはごめんだと、皆が思うのだろう。
現在、ドイツで登録されている乗用車の総数は4385万台強で、そのうち電気自動車はたったの2万5000台。まだ0.1%にも満たない。これでは2020年までに100万台どころの話ではない。
しかも、現在走っている電気自動車の多くは、メーカーやディーラーが自ら登録したものだそうだ。有名人に格安で提供して、宣伝のために乗ってもらっているものもある。その他の購入者は、役所、企業が多く、「私は100%電気で走っています」などと横腹に書いて、クリーンイメージ作りに一役買っている。
電気自動車の普及に関しては、おそらくドイツよりも日本の方が上だろう。
ガソリン車と電気自動車の違いは?
ただ、ドイツ人が始めたこのガソリン車廃絶の試みには、実はお手本がある。ノルウェーである。
ノルウェー政府は、ガソリン車とディーゼル車の新規登録は2024年までで終了し、25年からはそれ以外の自動車しか認めないことにするつもりだ。ノルウェーはEUに加盟していないので、我が道を行ける。
それにノルウェーの場合、実績もある。この国では、寛大な優遇政策を取ったためもあり、新しく登録される車の約15%は、すでに電気自動車なのだ。
畜電池に関する問題はまだ多いし(一番電池の性能のよいのは日本車だとのもっぱらの評判)、優遇政策にあまりにお金がかかりすぎるので、この政策がそのまま続くかどうかはちょっと疑問だが、それでも、いまのところ、電気自動車がこれほど普及している国はEUにはない。
しかもノルウェーは、その恵まれた地形と自然により、使っている電気がほぼ100%水力電気だ。だから、電気自動車が増え、そのために電力の使用量が増えても、CO2が増えるわけでもない。
それに比べて、ドイツは問題が多い。今でさえ、発電の45%近くが石炭と褐炭で行われており、大気汚染は激しい。去年の12月に決議された温暖化防止のパリ協定を本当に守ろうとしたら、こんなことは続けていられない。
とくに私の住むシュトゥットガルトは盆地で風がないため、大気汚染がドイツで一番ひどく、光化学スモッグのため、市が市民に車の運転を控えるよう強く要請した日もあった。
原発の電気を再エネで代替しようというのは、良いアイデアではあるが、今のところ現実的ではない。再エネに頼っていれば、電気の安定供給が損なわれて産業は破綻する。電気自動車だって、夜の間に充電しようにも、太陽光の電気は夜にはない。夜、風が吹かなければ、翌日は車が使えないということになる。
巨大な蓄電池を二つ使って、昼間に充電しておいたものと付け替えるというのも、大変な手間だ。蓄電池は高価でもある。だからドイツの経済エネルギー大臣も、「原発と火力の両方を一度に止めることはできない」と、そこだけは太鼓判を押している。
ただ、火力の運命も過酷だ。ドイツの取っている再エネ優先政策の下、火力はただのピンチヒッターに成り下がってしまったので、発電所はどこも火の車である。しかも撤退することは許されない。そこで経費節減のため、仕方なく安い褐炭を使う。CO2が増える。
こうなれば、ガソリン車と電気自動車の違いは、CO2を自動車が吐き出すか、あるいは、その前に発電所が吐き出すかということになってしまい、電気自動車を買うモチベーションはさらに下がるだろう。
原発廃止を叫ぶ前に
ドイツの政策には矛盾が多い。全然、環境のためになっていない脱原発をむりやり進め、産業国の最重要インフラを支えてきた電力会社を、軒並み大赤字に陥れてしまった。
そのうえ、充電の設備も作らず、2020年までに電気自動車を100万台にするなどといい、税金から補助金を吸い上げている。なぜ、車に乗らない人たちまでが、電気自動車を買う人に資金援助をしなければならないのか?
そもそもドイツという国は、自動車産業とともに発展してきた国だ。その基幹産業を、これほど急激に潰そうというのは解せない。
将来、電気自動車が乗用車の主流となっていくだろうことは否定しないが、それには、十分な充電施設を作らなくてはならない。そして、CO2を出さない発電所を整えなければならない。それらを一切無視して、自動車だけを売ろうとするのは馬鹿げている。
現在、温暖化防止のパリ協定の批准が進んでいるが、内容が非現実的すぎて、どの国もたいして守る気はない。守らなくてもよい協定ほど、皆、進んで批准する。日本は、批准したら守らなくてはいけないと考えているので、批准が遅れた。根本的に間違っている。どちらが間違っているのかは考え方次第だ。
しかし、そうするうちに、地球の温暖化は確実に進んでいく。CO2の最大の発生元は火力発電所だ。日本は、去年、1億トンの石炭を輸入し、燃やした(発電用はうち6割)。CO2もたくさん出した。
CO2を全く出さないのは原発だ。原発廃止を叫んでいる人には、①どうしたら原発を使わず、②CO2を増やさず、③電力の安定供給を保証するのか、それをまず考えて欲しい。


(現代ビジネス)

ドイツの緑の党が反対した決議をスウェーデンの緑の党が支持するというのもおもしろい(こういう事実を主要メディアは絶対に報じない)けど、「発電の45%近くが石炭と褐炭で行われており」だから、しかも、ドイツはロシアからパイプラインで天然ガスを輸入しているのだから、「火力はただのピンチヒッターに成り下がってしまった」は誇張だろ。
火力発電なしでドイツの産業やドイツ人の生活が成り立つはずがねえ。

まあ、それは日本に関係ないからどうでもいいとして、この人は、IPCCの人為的(排出CO2)温暖化説を真に受けて、原子力を正当化しているけど、「どの国もたいして守る気はない。守らなくてもよい協定ほど、皆、進んで批准する」ということは、実のところ、「どの国もたいしてIPCCを信じていない」ということに他ならないんだね。
人為的(排出CO2)温暖化が事実なら、今や中禍人糞凶和国がCO2排出ダントツだから、中禍人糞凶和国の排出を止めねばならないはず。
ところが、パリ凶定は安倍こべに中禍人糞凶和国のCO2排出増にお墨付きを与えた。
それは「どの国もたいしてIPCCを信じていない」から。
狂都議定書以降、中禍人糞凶和国の排出が激増したにもかかわらず、気温は殆ど上がっていないのだから、よほどのバカじゃない限り、IPCCを信じるはずねえだろ。
「守らなくてもよい協定ほど、皆、進んで批准する」と言うよりも、「守る必要のない協定ほど、皆、進んで批准する」と言う方が正確。
10月12日の投稿で採り上げた朝鮮日刊新聞邪説は「欧州連合(EU)は『全加盟国そろって締結』という原則を変えてまで対応した」と泣き喚いてたけど、それは「守る必要のない協定ほど、皆、進んで批准する」ということ。
安倍のチョンカスが「批准したら守らなくてはいけないと考えている」のは、もちろん、原発のため。

けど、それよりも何よりも、上の記事で私めが最も合点したのは、「なぜ、車に乗らない人たちまでが、電気自動車を買う人に資金援助をしなければならないのか?」という言葉。
10月2日の投稿で紹介したとおり、IPCC信者の左翼脱原発派は「引っ越しで新たな会社と契約した。そこへ以前の契約先から設備の後始末に伴う請求書が届いた。支払いに応じる人がいるだろうか」と喚き散らし、「なぜこんな理不尽な案が出てくるのか」と罵ったんだね。
それなら、「なぜ、車に乗らない人たちまでが、電気自動車を買う人に資金援助をしなければならないのか?」
ところが、5月16日の投稿で紹介したとおり、朝鮮日刊新聞記者自身が、日産自動車の電気自動車(EV)「リーフ」を買い、「車両価格は266万円だが、国の補助金27万円を得られた。東京都の場合、自動車税、自動車取得税、自動車重量税を合わせて20万円以上の免税もある・・・さらに、車から住宅に電気を送るシステム『EVパワーステーション』を入れた・・・本体と工事費を合わせて66万円かかったが、国と都から補助金計39万円を受け、実質的には27万円だった」と自慢げに囃し立てた。
もちろん、その補助金は市民の血税。
「なぜ、車に乗らない人たちまでが、電気自動車を買う朝鮮日刊新聞記者に資金援助をしなければならないのか?」
しかも、2012年11月12日の投稿で紹介したとおり、その記者の年収は1300万円。
昨年4月28日の投稿で紹介したとおり、1%の最富裕層。
前回の投稿で紹介したとおり、朝鮮日刊新聞は「機動隊員が差別的な発言をした」と泣き喚いてたけど、「なぜ、車に乗らない年収300万円の人たちまでが、電気自動車を買う年収1300万円の人に資金援助をしなければならないのか?」って批判すると、IPCC信者の左翼リベラルは「どこつかんどるんじゃ、ぼけ、車にも乗れない土人が」と罵るんだよ。
「耳を疑う暴言である」

そんなことは言ってない、と抗弁してもダメ!
「ぼけ、土人が」という露骨な表現さえしなければ暴言を吐いてはいない、ということにはならない。
「ぼけ、土人が」という台詞を口にしなくても、実際は暴言を吐いている。
「引っ越しで新たな会社と契約した。そこへ以前の契約先から設備の後始末に伴う請求書が届いた。支払いに応じる人がいるだろうか」と喚き散らし、「なぜこんな理不尽な案が出てくるのか」と罵りながら、「車に乗らない人たちまでが、電気自動車を買う人に資金援助」させるのは、「どこつかんどるんじゃ、ぼけ、車にも乗れない土人が」と言う以外の何物でもねえ。

って言うと、IPCC信者の左翼リベラルは、「なぜ、車に乗らない人たちまでが、電気自動車を買う人に資金援助をしなければならないのか?」と言うのなら、「引っ越しで新たな会社と契約した。そこへ以前の契約先から設備の後始末に伴う請求書が届いた。支払いに応じる人がいるだろうか」は認めるんですね、と言うだろうけど、そんな誤魔化しが通用すると思うか。
「引っ越しで新たな会社と契約した。そこへ以前の契約先から設備の後始末に伴う請求書が届いた。支払いに応じる人がいるだろうか」と言うのと、「車に乗らない人たちまでが、電気自動車を買う人に資金援助をしなければならない」と言うのは、一見矛盾しているようだけど、実のところ、ごく一部の社会的強者が大多数の社会的弱者から毟り取るという点で一致しているのだから、認めるわけねえだろ!
10月12日の投稿でも指摘したとおり、0.01%が99.99%から収奪するための人為的温暖化プロパガンダであり、だからこそ、IPCC信者の左翼リベラルは、片や「引っ越しで新たな会社と契約した。そこへ以前の契約先から設備の後始末に伴う請求書が届いた。支払いに応じる人がいるだろうか」と喚き立て、片や「車に乗らない人たちまでが、電気自動車を買う人に資金援助をしなければならない」と喚き立てるんだね。
って言うと、「黙れ、こら、貧乏人」と罵るんだよ、IPCC信者は。

朝鮮日刊新聞らの左翼リベラルども。
気候ネットワークらの奸凶NPOども。
江守正多らのIPCCども。
テメエらは、テンシュテットのマーラー第9の第1楽章を聴いて、「慈しみ」の心を学び、それから、クレンペラーのマーラー第7を繰り返し聴き、「巨大な優しさ」を学んで、反省しろ!
と言っても、ムダだろうな。
テメエらは血も涙も無い正真正銘の鬼畜だからな。
テメエらはインバルのマーラー第4を聴いた後で、自ら命を絶て!