反逆する大人より従順なFFFJを使うとは、さすがはグレ多様

今日今晩は。
「国際環境NGO(嘘)RealCrazyClimate」の会員某で~~~す。

2月9日の投稿で糾弾したにもかかわらず、破廉恥カス野郎が執拗に泣き喚いてやがる!


昨年10月、菅首相が2050年までに温室効果ガス排出実質ゼロの脱炭素社会を目指すことを宣言して以来、日本でも脱炭素化に向けた気候変動対策の議論が急速に進んでいる。
政府は複数の審議会の議論を通じてエネルギー基本計画や2030年排出削減目標(NDC)の見直しを急ぐ。多くの企業や自治体も次々に2050年の脱炭素化を宣言し、行動計画などを作成・公表し始めている。
外交日程も目白押しだ。今月16日には日米首脳会談、同22~23日には米大統領主催の気候サミット、6月にG7、10月にG20、そして11月に国連のCOP26があり、その都度に日本の本気度が世界から問われることになる。
未だに保守的な勢力との綱引きが多少はあるものの、日本でも多くの主体が脱炭素化に本気になってきたようにみえる。しかし、筆者にはそこに肝心なものが欠けているように思えてならない。

若者が指摘した「静かな暴力」
先日、それを鋭く指摘されたと感じた場面があった。
気候変動対策を検討する審議会の一つである、中央環境審議会と産業構造審議会の合同会合の第3回が2月26日にオンラインで開催され、筆者も委員として出席した。この回の主な議題は「将来世代からのヒアリング」であった(この議題は画期的である)。
気候変動問題等に関する活動を行う高校生や大学生の youth (若者)世代3団体、Climate Youth Japan、Fridays for Future Japan(FFFJ)、Japan Youth Platform for Sustainability から意見を聞いた。
どの団体の発表も意義深いと感じるものだったが、ここでは特にFFFJの発表を取り上げたい。
彼らが明確に主張したのは「気候正義」(Climate Justice)であった。彼らの一人は「気候変動に加担していない人々が最も影響を受ける不条理」への憤りを感じたことから声を上げ始めたという。
すなわち、気候変動で激化する災害により生活の基盤を失い難民化する発展途上国の人々は、我々に比べてほとんどCO2を排出していない。CO2を排出しながら暮らす先進国の我々の生活は、彼らの犠牲の上に成り立っているというのである。FFFJはこれを「静かな暴力」と呼んだ。
同様な格差の構造は、一国内での所得水準や性別の違いによっても生じる。例えば貧しい人や女性ほど災害時に被害を受けやすいからだ。
そして、FFFJの彼ら自身が直面するのが世代の違いによる格差である。気候変動でより深刻な被害を受けるのは将来世代であるにもかかわらず、対策の意思決定は上の世代によって行われている。
我々の多くは、これらの格差構造から恩恵を受け、自分が他者に対して振るう「静かな暴力」から目を背け続けている。
FFFJの若者たちは、このことをえぐるように指摘した。

気候正義の専門家の見解
この考え方は始めて聞く人にも理解しやすいものだと思うが、これを「気候正義」と呼ぶことについては少し注釈が必要かもしれない。
日本語で「正義」というと「正義の味方」を思い浮かべ、反対語は「悪」であり、絶対的で排他的な正しさが主張されていると感じる人が多いのではないか。
しかし、英語のjusticeは、just、つまり丁度よいことが語源で、裁判で量刑が丁度よく決められるように、釣り合いの取れた正しさを指す。日本語では「公正」と訳す方が理解しやすいかもしれない。ちなみにjusticeを「正義」と訳す場合、反対語は「悪」ではなく「不正義」(injustice)である。
正義は本来、倫理学や哲学の概念であり、筆者にはこれ以上の解説はできないので、法哲学の専門家で編著書に『気候正義 地球温暖化に立ち向かう規範理論』のある、京都大学の宇佐美誠教授に、今回のFFFJの発表についてコメントを頂いた。

環境省と経産省の審議会の合同部会におけるFFFJの発表を閲覧し、大いに説得力を感じた。
特に注目されるのは、気候変動のインパクトが2つの意味で不平等に表れることを強調している点である。
若年層は壮年層・老年層よりも、また将来世代は現在世代よりも深刻なインパクトを受けるだろうことについては、最近には社会的認知が広がりつつあるように見受けられる。
他方、同一世代内でも、家父長制的社会での女性や、社会を問わず低所得層・先住民族など、社会的経済的に不利な人々が、気候変動のインパクトを集中的に受けつつあり、今後はいっそう受けるだろうという傾向は、日本ではいまなお知られていない。
これら2つの意味での不平等を正面から受け止め、事態の改善をめざす際の理念が、〈気候正義〉に他ならない。
これを訴えるFFFJの主張に、大人世代は真摯に耳を傾けるべきだろう。
(京都大学 大学院地球環境学堂 宇佐美 誠)

FFFJの主張の意義が専門家からも裏付けされたといえるだろう。

海外と日本の認識の隔たり
このClimate Justiceという言葉は、パリ協定の条文の前文にも登場する。
アイルランド元大統領のメアリー・ロビンソンはClimate Justiceの唱道者としてよく知られている。
そして何よりも今のタイミングで重要なのは、同様の概念である"Environmental Justuce"(環境正義)を、米国のバイデン政権が大きく掲げていることだろう。
バイデンとハリスは大統領選期間中から、企業による乱開発や汚染に長く苦しんできた貧困地域、有色人種、先住民族などへの不正義を是正するという環境正義の公約を掲げてきた。公約には気候正義もセットで登場する。バイデン政権は司法省内に「環境・気候正義部門」を設置して汚染企業への住民の訴訟を支援するとともに、連邦政府全体で環境・気候正義に優先的に取り組む方針である。
このように、気候正義は欧米ではかなりメジャーな概念であるが、日本では若者や環境NGOの主張の中でしか耳にすることがない。
日本で脱炭素に取り組む動機は、企業においても政府の産業政策においても金融やサプライチェーンなどの外圧の影響が大きいようにみえるし、自主的な動機を挙げたとしても自身への異常気象被害への危機感が主なものだろう(それももちろん大事だが)。世界の脱炭素化が必要な理由を問われたときに気候正義を挙げられる人は、日本の政治や企業のリーダーにほとんどいないのではないか。
気候正義をどれだけ重視するかは各人の価値観や信条によるとしても、少なくともそのような議論についての理解がなければ、欧米のリーダーからは脱炭素化の理念の底の浅さを見透かされてしまうおそれがあると思う。
日本の外務省がこのことを理解していないはずはないので、おそらく菅首相は16日の日米首脳会談で、環境正義や気候正義を口にするだろう。そうであるならば、菅首相や小泉気候変動担当相が、ぜひご自身の言葉で、気候正義についてのお考えを国内外に発信してくださることを切に願う。

若者の声に謙虚に学べるかが問われている
審議会での将来世代からのヒアリングに話を戻そう。当日は最初に事務局(環境省)から温室効果ガス排出の現状等についての説明があり、続いて上述の若者3団体の発表があった後、委員が意見を一巡述べた。
少なくない委員が若者に発表への感謝を伝え、若者に質問する委員もいたが、「静かな暴力」といった彼らの主張の核心を正面から受け止めた応答は委員からほとんど聞かれなかった。若者の意見に全く言及しない委員もいた。
最後に、3団体の若者が委員からの質問に応答したが、途中で事務局の通信トラブルがあったり割当時間を超過して発言した委員が多かったために会議の残り時間は短く、彼らは急かされて話した。(時間が足りないのは彼らのせいではなく、ここにも小さな不正義の構造がみられた

後日、FFFJは彼らのウェブサイトに審議会への提言を発表した。要点は以下のとおりである。

現状の審議会は各委員が一方的にポジショントークをする場になっている。双方向的に議論するプロセスが必要。
審議会の委員に倫理的な分野の専門家が必要。また、当事者である若者の継続的な参画が必要。
環境省と経産省の省益のすり合わせでなく、省庁を超えたビジョンや問題意識の共有が必要。
複数の審議会間の関連性が国民にとってわかりにくい。政策決定プロセスの可視化が必要。

筆者はどの点にも首がもげるほど同意する。特に1は「王様は裸じゃないか」と指摘された気分だ。審議会はこういうものだから仕方がないと思っていた自分が恥ずかしく感じられる。
さらにFFFJは、当日の各委員の発言に対するコメントを発表している。委員の中には、若者の発表を上から目線で論評した人もいだだろう。しかし、これを見ると逆で、各委員がその発言を彼ら若者をはじめ関心のある国民の目から厳しく評価される立場にあることを思い知らされる。
彼らの声に対して、プライドを取り繕うために無視したりマウントを取り返しに行くのではなく、自分たちが学ぶ機会ととらえて謙虚に耳を傾ける関係者が多く現れることを願う。
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最後に少し先回りして論じておくが、FFFJのような倫理的な主張に対して、ネット上では冷笑的な反応が多いだろう。
「誰かの犠牲の上に成り立つ生活が嫌なら、原始人みたいに生活して下さい」というような反応がきっとたくさんある。
確かに、気候変動に限らず、我々の社会は様々な格差構造の上に成り立っており、それをすべて解消しようとするのは理想主義的に過ぎるのかもしれない。
しかし、だからといって現実を受け入れて諦めましょうというのは、古い常識にとらわれた考え方だと思う。我々は少なくとも、格差が一つ一つ是正されていく社会の変化を望むことができる。
特に気候変動の場合は、それを止めることが格差の是正につながると同時に人類全体にとっての安全保障でもあり、かつ出口の方向性(=社会の脱炭素化)が見えている。出口を目指すことが既に世界のトレンドにもなっている。
人類は奴隷制も植民地主義も卒業したのだから、化石燃料文明も卒業するに違いないと筆者は信じている。
若者は臆することなく倫理的な主張をしてほしい。
きっと時代が後からついてくるのだから。


(「日本の気候変動対策に欠けているもの ―我々は若者の声に学べるか」)

「首がもげるほど同意する」って?
前回の投稿で紹介したとおり、「朝日新聞」と名乗る犯罪組織は、コヤツに「地球温暖化で気温が1度上昇すると水蒸気量は7%増えるので、豪雨を強化させているのは明らかだ。ベースが上がっている分、ふつうの大雨を記録的な大雨に押し上げる」と泣き喚かせて、17年の九州北部豪雨、18年の西日本豪雨、そして、昨年7月に熊本県を襲った豪雨の「原因は人間の営みがもたした地球温暖化」と言い張り、「数々の水害を乗り越えてきた夫婦は、温暖化の脅威にさらされ、ついに故郷を離れることを決めた」と喚き立てたけれど、それなら、年配者が「当事者」だ。
「豪雨の原因は人間の営みがもたした地球温暖化」なら、「当事者である若者の継続的な参画が必要」と言い張るはずねえだろ。
「朝日新聞」と名乗る犯罪組織が、コヤツに「地球温暖化で気温が1度上昇すると水蒸気量は7%増えるので、豪雨を強化させているのは明らかだ。ベースが上がっている分、ふつうの大雨を記録的な大雨に押し上げる」と泣き喚かせて、「数々の水害を乗り越えてきた夫婦は、温暖化の脅威にさらされ、ついに故郷を離れることを決めた」と喚き立てた翌朝に、「首がもげるほど同意した」のは、テメエらの煽り立てる「地球温暖化」「気候変動」が全く非科学的なプロパガンダにすぎないことを露呈しただけだ。
「首がもげるほど同意する」って?
そうだな。
確かにテメエの「首はもげた」ぜ。
キャハハ!

「当事者である若者の継続的な参画が必要」と泣き喚いたのは、FFFJの愚か者たちが、「温暖化」を全く理解していないことを物の見事に露呈してる。
コヤツら醜悪で卑劣な大人が愚かな若者を唆したことを物の見事に露呈してる。
「気候変動問題等に関する活動を行う高校生や大学生の youth (若者)世代3団体、Climate Youth Japan、Fridays for Future Japan(FFFJ)、Japan Youth Platform for Sustainability から意見を聞いた」と嘯いてやがるけど、コヤツら奸凶省がそのように仕組んだんだね。
己らの唆した愚かな若者を利用して、「首がもげるほど同意する」と喚いてやがるわけだ。
コヤツの破廉恥さ醜悪さは明らかだろ。
「首がもげるほど同意する」って?
そうだな。
確かにテメエの「首はもげた」ぜ。
キャハハ!

1月11日の投稿で紹介したとおり、「スマートフォンのライトに照らされる高校生のグループ『50cm.』のメンバーたち」と囃し立ててやがったけれど、今の50代以上が高校生の時にはスマホどころか携帯電話もなかったし、60代以上が高校生の時にはパソコンもなかった。
前回の投稿で紹介したとおり、「気候変動は、文明社会の基盤を壊す」と泣き喚いてやがったけれど、昨年5月17日の投稿11月22日の投稿でも指摘したとおり、石炭・石油を利用して築き上げた「文明社会」の恩恵に与り、最も享受しているのは今の若者たち。
「彼ら自身」が石炭・石油の恩恵を最も受けているにもかかわらず、「FFFJの彼ら自身が直面するのが世代の違いによる格差である」と泣き喚き、「我々の多く(=大人)は、これらの格差構造から恩恵を受け、自分(=大人)が他者(若者)に対して振るう『静かな暴力』から目を背け続けている。FFFJの若者たちは、このことをえぐるように指摘した」と泣き喚くのは、「豊かな自分が貧しい他者に対して振るう『激しい暴力』=社会格差から目を背け続けている」からに他ならない。
だから、先進国における貧富の凄まじい拡大、貧困の増加から「目を背け続け」、最上位1%の富裕層もそれ以外も十把一絡げにして、「CO2を排出しながら暮らす先進国の我々の生活は、彼らの犠牲の上に成り立っているというのである。FFFJはこれを『静かな暴力』と呼んだ」と喚き立ててやがるわけだ。
1月23日の投稿で指摘したとおり、お馬鹿と売国伝の時代に格差が著しく拡大したにもかかわらず、「バイデンとハリスは大統領選期間中から・・・公約には気候正義もセットで登場する」と囃し立ててやがるわけだ。
前回の投稿で指摘したとおり、民主党の牙城であるカリフォルニアではカースト制度が出来上がり、数多のホームレスがいるにもかかわらず、そんな社会を築き上げたのは、黒んぼのハリスと民主党であるにもかかわらず、「バイデンとハリスは大統領選期間中から・・・公約には気候正義もセットで登場する」と囃し立ててやがるわけだ。

都合が悪いので、2月9日の投稿で糾弾したにもかかわらず、尚も「特に気候変動の場合は、それを止めることが格差の是正につながると同時に人類全体にとっての安全保障でもあり」と喚き続けてやがる(批判から「目を背け続け」ていることは、それが醜悪で卑劣な詭弁にすぎないことを示してる)けど、2016年1月7日の投稿2017年1月17日の投稿で指摘したとおり、コヤツの経歴が始まった狂都議定書以降に我国の労働者所得は減り続け、貧困が拡大し続けてきた。
己は狂都議定書と同時に国民の血税でのうのうと暮らし、その一方で貧困が拡大し続けているにもかかわらず、「我々の多く(=大人)は、これらの格差構造から恩恵を受け、自分(=大人)が他者(若者)に対して振るう『静かな暴力』から目を背け続けている。FFFJの若者たちは、このことをえぐるように指摘した」と泣き喚くのは、「富裕な自分が貧しい他者に対して振るう『激しい暴力』=格差拡大から目を背け続け」て、市民を収奪し続けるために、「気候変動」と煽り立て、FFFJの醜悪な若者を唆していることを自白しただけ。
「首がもげるほど同意する」って?
そうだな。
「気候変動」と煽り立てる卑劣な目論見を自ら露呈してしまって、「首がもげた」ようだな。

「FFFJの主張の意義が専門家からも裏付けされたといえるだろう」と言い張ってやがるけれど、「同一世代内でも、社会を問わず低所得層・先住民族など、社会的経済的に不利な人々」ということは、世代間の問題ではないということ。
2月15日の投稿で指摘したとおり、「今を安心して生きられない国民に後世も未来も子孫もない」。
昨年4月27日の投稿5月17日の投稿、そして、1月11日の投稿で指摘したとおり、FFFJの若者は裕福な家庭の若者。
「今を安心して生きられている」から、「若年層は壮年層・老年層よりも、また将来世代は現在世代よりも深刻なインパクトを受けるだろう」などと言えるんだね。
支那ウィルス禍で困窮している若者は、「気候変動対策」ではなく「格差対策」「貧困対策」を、と言うはず。
それから「目を背け続け」て、「彼らの一人は『気候変動に加担していない人々が最も影響を受ける不条理』への憤りを感じたことから声を上げ始めた」のは、「自分が他者に対して振るう『激しい暴力』」以外の何物でもない。
「同一世代内でも」と嘯きながら、最後に「大人世代は真摯に耳を傾けるべきだろう」と喚き立てるのは、市民を収奪し続けるために、「環境省と経産省の審議会の合同部会におけるFFFJの発表を閲覧し、大いに説得力を感じた」ことを、この宇佐美ちゅう野郎が腐れ誤用学者に他ならないことをハッキリと示してる。

「日本語で『正義』というと『正義の味方』を思い浮かべ、反対語は『悪』であり、絶対的で排他的な正しさが主張されていると感じる人が多いのではないか」と泣き喚いてやがるけど、水害では年配者が犠牲になっているにもかかわらず、「若年層は壮年層・老年層よりも、深刻なインパクトを受けるだろうことについては、最近には社会的認知が広がりつつあるように見受けられる」と喚き立て、「同一世代内でも、社会的経済的に不利な人々」を顧みないにもかかわらず、「彼らの声に対して、プライドを取り繕うために無視したりマウントを取り返しに行くのではなく、自分たちが学ぶ機会ととらえて謙虚に耳を傾ける関係者が多く現れることを願い」、「若者は臆することなく倫理的な主張をしてほしい」と泣き喚くのは、「絶対的で排他的な正しさが主張されている」んだろ!
もちろん、「絶対的で排他的な正しさを主張する」のは「義」に反するから、「正義」足り得ない。
昨年12月16日の投稿でも指摘したけれど、それを論じるのが哲学。
哲学者なら、「正義」と言い張ることこそが「自分が他者に対して振るう『静かな暴力』」に他ならないと、喝破するはず。
「これら2つの意味での不平等を正面から受け止め、事態の改善をめざす際の理念が、〈気候正義〉に他ならない」と泣き喚くのは、この宇佐美ちゅう野郎が、ただのお笑い芸人にすぎないことをハッキリと示してるな。

しかも、だ。
実は、コヤツはこれ以前に、無学術会議主催(ここにも無学術会議の反社会性がハッキリと表れている)のサイエンスカフェとやらで対談していて、だから「今回のFFFJの発表についてコメントを頂いた」わけだけど、宇佐美ちゅう野郎は、こう言ってた。


“正義”という観点だけ考えればよいのかと言えば「そうではない」と、質問者の疑問に同意する宇佐美さん。
「私自身は正義について関心を持って取り組んでいるが、それだけではだめ。ある問題について、正義の視点から『こうなります』と言えたとしても、ではお金はどうするのか、他の影響は出ないのかなど、考えなければいけない視点はほかにも」と、総合的に見る重要性を指摘。
政策を実際に進めるためには、色々な分野の知識や知恵を持って議論をすることが必要だと言います。
だからこそ、「正義の観点から『政策をこうしましょう』とは絶対に言えないと、私は思っている」と宇佐美さんは強調しました。


(「気候変動を、科学が語る、哲学が問う サイエンスカフェ『気候変動の科学×哲学』開催報告」より)

それなのに、今度は「これら2つの意味での不平等を正面から受け止め、事態の改善をめざす際の理念が、〈気候正義〉に他ならない」と泣き喚く。
言葉遊びだけで中身がカラッポな誤用学者だぜ。

「社会的経済的に不利な人々が、気候変動のインパクトを集中的に受けつつあり、今後はいっそう受けるだろう」なら、「当事者である社会的弱者の継続的な参画が必要」なはずだろ。
4月1日の投稿で紹介したとおり、再エネという紛い物に1万円以上も負担させられてる。
「当事者である社会的弱者」が再エネのさらなる増加を求めるか?
昨年7月25日の投稿で紹介したとおり、「本格的なカーボンプライシング(炭素税や排出権取引)が日本でも導入されれば、石炭火力のコストはさらに上がる。すぐに導入されるかはわからないが、10~20年にわたって導入されないと想定する事業者はさすがに楽観的すぎるだろう」と喚き立ててやがったけれど、「当事者である社会的弱者」が炭素税を求めるか。
するはずねえだろ。
再エネは止めろ、炭素税は許せない、と糾弾するはずだな。
だから、「当事者であるはずの弱者を参画」させたくない。
だから、「この回の主な議題は『将来世代からのヒアリング』であった(この議題は画期的である)」と言い張ってやがるわけだ。
って言うか、それを仕組んだのはコヤツらだ。

2月9日の投稿で糾弾したにもかかわらず、「特に気候変動の場合は、それを止めることが格差の是正につながると同時に人類全体にとっての安全保障でもあり」と嘯き続けてやがるけど、「筆者にはそこに肝心なもの(=「格差の是正」と「安全保障」が欠けているように思えてならない」。
炭素税は「格差の拡大につながる」だけ。
再エネを増やし、炭素税を課せば、電気代は暴騰し、社会的弱者はエアコンが使えなくなり、「安全保障」を損なうだけ。
電気代が暴騰すれば全ての物価が暴騰し、社会的弱者が激増し、「安全保障」を損なうだけ。
「社会的経済的に不利な人々が、気候変動のインパクトを集中的に受けつつあり、今後はいっそう受けるだろう」なら、「安全保障」は「社会的弱者の安全保障」でなくてはならない。
「人類全体の」と言うのは、「そこに肝心なものが欠けている」ことを露呈してる。
「特に気候変動の場合は、それを止めることが格差の是正につながる」のなら、「弱者の声に謙虚に学べるかが問われている」はず。
けど、それはさせたくないから、「しかし、筆者にはそこに肝心なものが欠けているように思えてならない」と泣き喚いて、「彼らの声に対して、プライドを取り繕うために無視したりマウントを取り返しに行くのではなく、自分たちが学ぶ機会ととらえて謙虚に耳を傾ける関係者が多く現れることを願う」んだね。

「FFFJのような倫理的な主張に対して、ネット上では冷笑的な反応が多いだろう」と泣き喚いてやがるけど、「弱者の声に謙虚に学べる」のが「倫理的」。
「同一世代内でも、社会的経済的に不利な人々」を顧みないFFFJの醜悪な若者に「倫理」は無い。
「FFFJのような倫理的な主張に対して」と泣き喚くコヤツにも「倫理」は無い。
「弱者は臆することなく倫理的な主張をしてほしい」と言わず、「若者は臆することなく倫理的な主張をしてほしい」と喚き立てるコヤツは「倫理」に反する。
「倫理」に反しながら、「彼らが明確に主張したのは『気候正義』(Climate Justice)であった」だの、「このように、気候正義は欧米ではかなりメジャーな概念である」だのと「正義」を振りかざすコヤツは「悪」そのものだ。

以上のような「倫理的批判」から目を逸らすために、殊更に「『誰かの犠牲の上に成り立つ生活が嫌なら、原始人みたいに生活して下さい』というような反応がきっとたくさんある」と泣き喚いてやがるけれど、「当事者である社会的弱者の継続的な参画が必要」と言わずに、「当事者である若者の継続的な参画が必要」と泣き喚き、「弱者の声に謙虚に学べるかが問われている」とは言わずに、「若者の声に謙虚に学べるかが問われている」と泣き喚いて、再エネを押しつけ、炭素税を押しつけるのは、「弱者の犠牲の上に成り立つ生活」を享受し、市民に「原始人みたいに生活して下さい」と言い放つ以外の何物でもない。
「当事者である社会的弱者の継続的な参画が必要」と言わず、「当事者である若者の継続的な参画が必要」と泣き喚き、「弱者の声に謙虚に学べるかが問われている」とは言わずに、「若者の声に謙虚に学べるかが問われている」と泣き喚きながら、「時間が足りないのは彼らのせいではなく、ここにも小さな不正義の構造がみられた」と泣き喚くのは、「気候正義」の「不正義の構造がみられた」だけだ。

「気候変動で激化する災害により生活の基盤を失い難民化する発展途上国の人々は、我々に比べてほとんどCO2を排出していない。CO2を排出しながら暮らす先進国の我々の生活は、彼らの犠牲の上に成り立っているというのである」と泣き喚いてやがるけど、我国の累積排出責任は途上国並み。
GDP当たりなら途上国以下。
EUは、累積排出量が我国の5倍以上であるにもかかわらず、3月6日の投稿で採り上げた「いちからわかる!」に見えるとおり、「取り組みが不十分な国からの輸入品に税金をかける『国境調整措置』」とほざいてやがる。
累積排出量が最も多いにもかかわらず、これまた3月6日の投稿で採り上げた3月3日の朝刊紙面に見えるとおり、売国伝も「努力足りぬ国『課金』」などとほざいてやがる。
それは、欧米が我国の何倍もCO2を排出することは許されるということであり、「CO2を排出しながら暮らす累積排出量先進国の生活は、彼ら日本人の犠牲の上に成り立っている」ということに他ならない。
「彼らの一人は『気候変動に加担していない人々が最も影響を受ける不条理』への憤りを感じたことから声を上げ始めたという」のなら、そんな欧米に「自分が他者に対して振るう『静かな暴力』から目を背け続けている」と「憤りを感じ」るはず。
けど、感じない。
だからこそ、コヤツが「FFFJの若者たちは、このことをえぐるように指摘した」と歓んでる。
「このように、気候正義は欧米ではかなりメジャーな概念であるが、日本では若者や環境NGOの主張の中でしか耳にすることがない」ということは、FFFJの愚かな若者(や完狂NGO)は累積排出量も知らずに、「気候変動」と泣き喚いているということだ。
な~~~んにも理解していないんだね。
な~~~にも理解していない輩が「正義」と言い張るのは、「自分が他者に対して振るう『静かな暴力』」以外の何物でもない。
な~~~んにも理解していない愚かな若者から「自分たちが学ぶ機会ととらえて謙虚に耳を傾ける関係者が多く現れることを願う」のは、「コヤツが他者に対して振るう『激しい暴力』」を「願う」ことをハッキリと示してる。
「人類は奴隷制も植民地主義も卒業したのだから、化石燃料文明も卒業するに違いないと筆者は信じている」と嘯いてやがるけど、「その都度に日本の本気度が世界から問われることになる」と泣き喚き、「少なくともそのような議論についての理解がなければ、欧米のリーダーからは脱炭素化の理念の底の浅さを見透かされてしまうおそれがあると思う」コヤツは、欧米が累積排出責任を我国に転嫁するのを、つまり、「植民地主義」を正当化してるんだね。
「少なくともそのような議論についての理解がなければ、欧米のリーダーからは脱炭素化の理念の底の浅さを見透かされてしまうおそれがあると思う」のは、テメエの「底の浅さ」をハッキリと示してるんだ!

「菅首相や小泉気候変動担当相が、ぜひご自身の言葉で、気候正義についてのお考えを国内外に発信してくださることを切に願う」だと?
政治家が「自身の言葉」で語るということは、国民のために政治をするということだ。
我国の首相が欧米の首脳に対して「自身の言葉」で語るということは、欧米の累積排出責任を糺し、欧米と中禍人糞凶和国の累積排出量に課金し、累積排出責任が途上国以下の我国に補償させる国際的枠組みを創設することを要求する、ということだ。
あべこべに「取り組みが不十分な国からの輸入品に税金をかける『国境調整措置』」だの、「努力足りぬ国『課金』」だのは「気候正義」に反する、と糾弾することだ。
「気候正義をどれだけ重視するかは各人の価値観や信条によるとしても、少なくともそのような議論についての理解がなければ、欧米のリーダーからは脱炭素化の理念の底の浅さを見透かされてしまうおそれがあると思う。日本の外務省がこのことを理解していないはずはないので」と泣き喚き、「出口を目指すことが既に世界のトレンドにもなっている」と喚き立ててるのは、累積排出責任が重いはずの欧米を正当化する以外の何物でもなく、テメエの煽り立てる「温暖化」のデマを自白しただけ。
コヤツは、累積排出責任が重いはずの欧米(と中禍人糞凶和国)を「正義」にし、途上国以下の責任しかないはずの我国を「不正義」にし、我が国民を苦しめるために、国民に指突きつけて「我々の多くは、これらの格差構造から恩恵を受け、自分が他者に対して振るう『静かな暴力』から目を背け続けている」と罵り散らしたんだね。
「気候正義」という「悪の構造」は明らかだろ。

前回の投稿でも解説したとおり、コヤツらIPCCの煽り立てる「地球温暖化」「気候変動」の非科学性は完全に明らか。
もはや、コヤツには「若者の声に謙虚に学べるかが問われている」と泣き喚き、「気候正義」と喚き立てるしか能も術も無い。
「しかし、筆者にはそこに肝心なものが欠けているように思えてならない」。
テメエには肝心の「科学」が欠けているんだ!
「しかし、筆者にはそこに肝心なものが欠けているように思えてならない」。
テメエには肝心の人間の心が欠けているんだ!
ちなみに「正多」の反対語(反義語)は「正義」である。